- 出演者
- 富澤たけし(サンドウィッチマン) 伊達みきお(サンドウィッチマン) 芦田愛菜 田中圭 伊集院光
今回は「戦国時代ヤバすぎる新説SP」。
歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表する。6年前に9歳で初登場だったお城博士の響大くんは、リビングに勉強机があり城や歴史の本が50冊以上並んでいる。これまで全国400か所以上の城を巡っている。ミニカーを兵士に見立て発泡スチロールの城を攻める側と守る側で戦うオリジナルゲームを作っていた。現在は15歳になった。
歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表する。戦国武将博士の夏姫さんは伊達政宗の肖像画に一目惚れして歴史好きになった。マイナー戦国武将博士の周真くんは戦国武将の本を200冊読破した。歴史・寺社博士の裕加さんはこれまで神社仏閣本や歴史関連本を300冊読んできた。
数年前、聖徳太子の名前が消える騒動があった。最新研究によると聖徳太子という名前は奈良時代頃にはつけられていたと考えられ、本当に存在したのかさえ疑問視された。その後研究が進むと厩戸皇子とするのが妥当とされ、現在の教科書では聖徳太子(厩戸皇子)と紹介されている。
歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表。10位は「茶人 千利休は隠れキリシタンだった!?」。千利休は秀吉に急に切腹を命じられ、秀吉も後悔していたとされる。戦国プリンセス博士の天音さんは、千利休がキリシタンと関わりが深かったから秀吉が切腹を申し付けたのではと話した。秀吉はキリスト教の拡大を危険視し、宣教師を国外追放するほどキリスト教を嫌っていたことが知られている。利休は茶の湯を通して多くのキリシタン大名と親交を深めていた。さらに宣教師たちが帰国してまとめた布教マニュアルの中には、現地の布教に茶の湯を利用していたと書かれている。天音さんは茶室に入るときは武士も刀を外さないといけない、茶室の中では誰でも平等という考え方がキリスト教に似ている、茶の湯が同じ器で飲んで回すようにキリスト教のミサでも同じ杯を飲んで分け合うことがあり作法が似ていると話した。様々な要因から秀吉は千利休が隠れキリシタンなのではと疑っていた可能性があるという。
芦田は聖徳太子とは習ったが断定はしない感じだったのは見たことがあると話した。鎌倉幕府を開いたのは1192年から1185年になった。
響大くんは歴史は新説が出て変わっていくのが醍醐味だと話した。天音さんはきょう紹介する新説が全て正しいとは限らない、背景を考えるのが一番いいと話した。
歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表。8位は「武田信玄VS上杉謙信 伝説の一騎打ちはなかった!?」。川中島の戦いの舞台の跡地には信玄と謙信の一騎打ちの瞬間を表す像が立っている。
歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表。8位は「武田信玄VS上杉謙信 伝説の一騎打ちはなかった!?」。川中島の戦いで信玄と謙信が一騎打ちをしたと言われているが、上杉家の史料によると謙信ではなく荒川伊豆守が戦ったと書かれている。周真くんは大名が影武者を使うのは珍しくない、信玄も影武者を使っていたと話した。歴史本博士の有史くんは、信玄が謙信の一撃を受け止めたと言われる軍配が納められているという栖雲寺を訪れた。
歴史本博士の有史くんは、信玄が謙信の一撃を受け止めたと言われる軍配が納められているという栖雲寺を訪れた。信玄公が必勝祈願したという摩利支天で必勝祈願し、信玄公も食べたという蕎麦を味わった。宝物殿には武田家ゆかりの品が数々奉納されていた。
歴史本博士の有史くんは栖雲寺を訪れ、信玄が謙信の一撃を受け止めたと言われる軍配を見せてもらった。鉄製の軍配で、刀傷がついていた。住職は信玄は師匠から一国の主がやすやすと刀を抜くなと言われ刀を抜かなくなったという説がある、木の軍配だと役に立たないので鉄で作らせたと言われていると話した。
影武者にまつわる新説を解説。天音さんは影武者は血縁関係がある近親者が務めることが多かったと話した。周真くんは蒲生氏郷は前線に立つ武将だが亀田太郎太を影武者を使ったかもしれないと言われている、徳川家康が影武者を使っていたと史実に残っていると話した。家康は75歳の時に病気で亡くなったと言われているが、実は1年前の大坂夏の陣の時に討ち死にしており影武者がその後代わりを務めていたという新説がある。周真くんは死んだ情報が広まると負け確定なので風格が似ている小笠原秀政が入れ替わった、それが伝わっていた南宗寺には家康の墓があると話した。
歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表。7位は「宮本武蔵VS佐々木小次郎 巌流島の決闘 ありえない手段で倒していた!?」。伝説の巌流島の戦いでは武蔵が一撃で小次郎を倒したと言われ、武士道の精神を象徴する物語として語り継がれている。しかし沼田家記によれば、1対1で武蔵が勝利したものの息を吹き返した小次郎を武蔵の弟子が倒したと記されている。
歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表。6位は「戦国最強武将 本多忠勝の鎧ペラッペラだった!?」。本多忠勝の甲冑の前垂れ部分は革製で、防具と防具の隙間もスカスカ、兜の角は取り外し可能で紙製だった。忠勝は軽さを重要視し、16キロほどだったと言われている。本多忠勝が戦国最強と言われるもう1つの理由は蜻蛉切と呼ばれる槍で、普通の人は振れない6mの槍が扱うことができた。
本多忠勝の6mの槍「蜻蛉切」をスタジオで再現。芦田と田中が振り回しに挑戦した。有史くんは本多忠勝は見た目を重視した、本多家の人たちは形を整えることで内面も磨かれていくと考えていたと話した。
歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表。5位は「島原の乱を起こしたカリスマ 天草四郎 ユニット名だった!?」。島原の乱を率いた天草四郎は、海の上を歩くなど奇術を行って人々の信頼を得たと言われている。
歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表。5位は「島原の乱を起こしたカリスマ 天草四郎 ユニット名だった!?」。最新研究によると、島原の乱を率いた天草四郎は1人ではなく複数人いたという説が浮上している。一揆制圧後、幕府軍のもとには十数もの天草四郎の首が差し出されたという記録や、武家の家臣たちが天草四郎の分身として活動していたとも言われている。
歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表。4位は「大坂夏の陣で豊臣家は滅亡してなかった!?」。大坂夏の陣では豊臣軍5万人と徳川軍15万人が激突し、徳川軍が勝利した。豊臣秀頼は自害し、教科書では豊臣家は大坂夏の陣で滅亡したと言われている。しかしこの時豊臣家は滅亡していなかったという新説が伝えられている。響大くんとロッチ中岡が大阪城でその証拠を探す。大阪城の外堀は鉄砲が届かないよう外堀が広くなっていた。守る側は高さがあるので届く。現在の大阪城は豊臣秀吉のものではなく、徳川家の城だと知らしめるために徳川幕府が土で埋めて新しく作ったもの。豊臣家の城は地中に眠っている。
歴史好き博士が選ぶ戦国時代の新説ベスト10を発表。4位は「大坂夏の陣で豊臣家は滅亡してなかった!?」。豊臣家は大坂夏の陣で滅亡していなかったという新説が伝えられている。響大くんとロッチ中岡が大阪城でその証拠を探す。大坂冬の陣で真田幸村は大阪城の南1.5キロの場所に真田丸を築いた。史料には大阪城と真田丸をつなぐ通路を地下に掘ったと記されている。新説ではこの抜け穴から豊臣家が逃げたと考えられている。豊臣方の武士が残したとされる史料には東八丁目の門の東に一段高い畑があり、これを真田の出城とすると記されている。2人は史料にあった一段高い土地を発見した。