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「ColBase」 のテレビ露出情報

依頼人・岡田ゆきさんと叔父・一さん。一さんは50年程前から木彫を収集。今やその数は500体に。ゆきさんは骨董よりも「開運!なんでも鑑定団」が大好きで、3~4年前から鑑定額を予想するのが楽しくなり、私も出たい!と思い始め、「何かお宝ないの?」と声をかけたところ、その中にユニークな人形を見つけた。依頼品は嵯峨人形。人形は古くはひとがたと呼ばれ、信仰の対象であった。土偶や埴輪もその一種。奈良時代に作られた木製のひとがた。撫でたり、息を吹きかけることで、病気や災いをこれに移し、最後は川に流して祓い清めたという。平安時代になると魔除けとして幼児の枕元に置く天児や這子が登場。貴族の邸宅などに実際に飾るため、それまでのひとがたにはない愛らしさや美しさが備わり、玩具としても用いられるようになった。やがては天児を男の子、這子を女の子に見立て、対とする立雛形式が誕生。これが雛人形の源流となった。人形が文化の一翼を担い一気に花開いたのは江戸時代のこと。あどげない稚児のふくよかな姿を型どった御所人形やちりめんや金襴などの切れを被せた賀茂人形など純粋に鑑賞して愛でる人形が盛んに作られた。中でもひときわ豪華で異彩を放っているのが嵯峨人形。木彫で成形した後、胡粉を塗り、その上から彩色を施すが、胡粉を厚く盛り上げることで、衣装の文様を立体的に表現し、さらに金や岩絵具で絢爛豪華に仕上げている。こうした技法は江戸中期の仏像にも見られるため、仏師が予備で制作したとも言われているが定かではない。また、嵯峨という名も京都・嵯峨が製作地とする説や嵯峨本や嵯峨棗の影響が優美な細工を連想し後世につけられたとする説などがあり、その成り立ちは詳らかではない。嵯峨人形で最も多く見られるモチーフは童子で吉祥を表す子犬や鳥を持つものも。また、内部にからくりを模したものもあり、頭を前後に揺らすと、それに伴い舌を出す。これを首振り嵯峨と言う。ちなみにドイツ・マイセンで作られたパゴダドールも頭を揺らすと舌を出すからくりが備わっているが、首振り嵯峨をモデルに考案されたとも言われる。やがて江戸時代後期になると遊女や旅芸人など風俗嵯峨が作られるようになった。しかし、嵯峨人形は極めて制作に手間を要するため、江戸時代末には姿を消した。そのため現存するものは極めて少なく、愛好家の間では幻の人形と呼ばれている。依頼品は高さ約20cmの童子を型どった嵯峨人形。右手に金色の鴛鴦を持ち、着物には七宝繋ぎ文や麻の葉文などが生地に施されている。いわゆる首振り嵯峨でからくりの状態も良い。箱書きには明治36年に時の皇后陛下が真田伯爵家に下賜し、それをうなゐ荘なる人物が譲り受けたことが記されている。

他にもこんな番組で紹介されています…

2026年5月3日放送 16:30 - 17:25 テレビ朝日
日曜マイチョイス世界遺産検定マイスター あばれる先生と大人の修学旅行
天草四郎終焉の地とされる原城跡。日本が鎖国することのきっかけの事件が起こった。原城は1604年、キリシタン大名の領主・有馬晴信が完成させた。難攻不落の天然の要塞と呼ばれ、別名・日暮城と言われた。その後、松倉重政が領主になり、新たに島原城を築いたため1618年に原城が廃城。しかし、1637年に松倉重政による厳しい年貢の取り立てで、飢饉をきっかけにキリシタンが原[…続きを読む]

2026年4月28日放送 19:00 - 21:00 テレビ朝日
プラチナファミリー&火曜の良純孝太郎日本探求アカデミックバラエティ 火曜の良純孝太郎 東京調布・深大寺SP
深大寺の山門は江戸時代の1695年に建てられた。お寺の参拝作法は「手水で手を清める」「線香をあげその煙で身を清める」「合掌でお参り」。1865年の火災で山門・常香楼以外は焼失したし、常香楼には今も江戸時代の焼け跡が残っている。本堂は大正7年に再建。
深大寺に祀られている東日本最古の国宝は飛鳥時代に制作された釈迦如来像。深大寺ができた奈良時代に持ち込まれたと[…続きを読む]

2026年4月26日放送 12:54 - 14:00 テレビ東京
開運!なんでも鑑定団(開運!なんでも鑑定団)
続いては三重県伊勢市の宮川ラブリバー公園から。依頼人は南谷梓さん。マウンテンバイクで80歳の時に二見浦へ行ったが片道10kmで結構疲れたと話した。お宝は30年程前に京都の骨董市で小さい黒い焼物を見つけ2万8000円で購入した。すごく軽く黒く塗られている部分も薄く感じて台所用の漂白剤で漬け置きするとキレイな焼物が出てきたという。調べてみると中国の貴重な焼物と判[…続きを読む]

2026年4月7日放送 4:55 - 8:00 テレビ朝日
グッド!モーニングGOOD!いちおし
次は、天下人豊臣秀吉の後継者・秀頼がライバル徳川家に抱く対抗心も読み取れる書状。学芸員・中村亮佑さんは、「直江兼続に出した黒印状になる。豊臣秀頼は初めて手紙を出した時から黒印・黒い判子を使っていた。朱印よりも黒印の方が礼が薄いと考えられる」とコメントした。家康も同じく関ヶ原の戦いの後天下人になった頃から朱印状より礼の薄い黒印状を多用するようになったと言われて[…続きを読む]

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