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オープニング映像。
戦後も人々の中に残る憎しみや偏見は消えず、家族や周囲から反対されながらも愛を選び元敵兵と結婚した女性たちを人は戦争花嫁と呼んだ。戦争花嫁とは第二次世界大戦後に日本に駐留したアメリカ軍を始め、連合国軍関係者と結婚した女性たちのことであり、その数は4万から5万人と言われている。そんな戦争花嫁4人を奈緒が取材した。奈緒はアメリカ・シアトルで暮らす恵子・ジョンソンのもとを訪ねた。恵子は25歳で夫・アルバートと結婚して渡米した。恵子は16歳の頃に兄・康彦の友人であったアルバートと出会い、親交を深め、アルバートが帰国した後の8年半も手紙で交流を続けていた。その後アルバートが1か月の休暇で来日することとなり恵子は仕事で多忙であったが覚悟を持ってアルバートと結婚する道を選択した。アメリカでの生活で人種差別にあってきた恵子は当初住居を借りれずモーテルで暮らし、アルバートの知人のつてで物置を改造した小屋で1年ほど暮らすようになり3人の子どもを授かった。そんな中で恵子はアルバートの衝撃な事実を知った。
恵子はある日に夫・アルバートが同性愛者であることを知り、結婚から10年後にアルバートは恵子と子どもたちを残して疾走してしまったなどと明かした。恵子の娘たちは母が自身を犠牲にして自分たちを守ってくれていたなどと話した。
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- アルバート・ジョンソン
奈緒がマリコ・スパックを取材。マリコは24歳で空軍に勤務していた夫・カールトンと結婚して渡米した。マリコは出会いなどについて勤務していた基地の聖歌隊に入り、その歌う姿をカールトンに見初められ、結婚したいため母に会いに行きたいと伝えれ、母に反対されるかと思ったが歓迎ムードで、カールトンの積極的な姿に結婚することを決めたなどと明かした。マリコは当時に戦争花嫁と呼ばれ、人種差別のようなことがあったはずであるが自分には歌があり、周囲では日本人の変な噂を聞くことはなかったなどと伝えた。マリコは60歳で歌を極めたいと大学に進学し、10年ほどかけて卒業したなどと明かした。マリコの子どもたちであるジャクリーンらは、母がピアノや琴を奏で歌っていたのを聴いて育ったなどと伝えた。マリコは夫・カールトンは女性と何度も浮気をし、一度は単身帰国し母に相談し、「辛抱した木には花が咲く」のだと伝えられ、歌を支えに子どもたちへ愛情を注ぎ続けたなどと告げた。
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- カールトン・スパック
結婚して渡米したマリコを支えたのは歌であり、戦争花嫁で結成されたグループ「Cherry Blossom Singers」を結成し、ステージで披露し人気を博してきた。そのメンバーである恵子とともにマリコが歌を披露した。マリコは90歳の誕生日会を子どもたちに開いてもらったとしてスティラクーム市庁舎に案内し、母に言われた「辛抱した木には花が咲く」という言葉の意味をここで知ったのだと明かした。
奈緒が戦争花嫁であるツチノ・フォレスターを取材。ツチノは24歳の頃に空軍兵であった夫・マイクと結婚して渡米した。ツチノは戦争花嫁を取りまとめた団体である日系国際結婚友の会の会長を務めており、戦争花嫁という言葉は欧米では素直にそのままの意味で受け入れられていたが、無条件降伏の日本では当時、男には仕事がなく女は気軽に軍に関係した高給な仕事に就くことができたため、その様子を見下げる言葉として戦争花嫁が使われるようになっていたなどと明かした。嘉悦大学の元教授である安冨成良は、戦争花嫁という言葉が侮辱的であったのかについて、そうした議論が多くされてきた一方で、戦争花嫁と言葉の存在がアメリカで頑張ってきた彼女たちの存在を示し続けるものになるという意見も出ていたなどと解説した。戦争花嫁渡米40周年記念大会当日には全米から320人の戦争花嫁が集まっていた。日系国際結婚友の会は1989年に戦争花嫁たちの交流や地位向上を目的に日系国際結婚親睦会として設立された。ツチノとマイクとの結婚には様々な障壁があり、マイクは当初母が歓迎してくれず、父だけが喜んでくれたなどと伝えた。また当時マイクが所属する空軍からも結婚許可は下りず、第二次世界大戦後にアメリカ38州で異人種間結婚が禁止となっていたなどとマイクは自身の著書に記している。マイクはツチノと出会ったことが人生における最良の出来事であったなどと語った。1945年5月29日の横浜大空襲で多くの知り合いや友人を亡くした一人の女性がいた。
アメリカ・ライマ市で暮らす桂子・ハーンを奈緒が取材。桂子は奈緒が出演した舞台「WAR BRIDE アメリカと日本の架け橋 桂子・ハーン」のモデルとなった人物であり、1945年5月29日の横浜大空襲で知り合いや友人を亡くした。終戦から6年後の1951年に桂子は兵士であった夫・フランクと結婚し渡米した。桂子はダグラス・マッカーサー元帥が日本を占領していた頃に第八軍の人事課首脳部で働き、ある時に新兵として入ってきたフランクと出会ったなどと明かした。桂子は家族からの反対の声などはなかったが日本でもアメリカでも差別を受けてきたなどと告げた。
エンディング映像。