2025年7月28日放送 1:28 - 2:28 TBS

ドキュメンタリー「解放区」
「死刑」を考える〜世界の現場を訪ねて〜

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(オープニング)
オープニング

オープニング映像。

ドキュメンタリー「解放区」
今回は…

パリの公立高校で行われている、死刑をテーマにした授業。フランス各地の高校では毎年10月10日の世界死刑廃止デーにあわせて死刑について学ぶ授業がある。負担素手は1981年に死刑廃止。2007年には死刑廃止を拳法で明記された。命を奪う究極の刑罰、ヨーロッパ、アメリカ、日本での現地取材を通して改めて死刑について問いかける。

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パリ(フランス)ポール・ロベール高校
「死刑」を考える〜世界の現場を訪ねて〜

世界各地での死刑廃止に人生を捧げたというロベール・バダンテール弁護士。1923年にパリのユダヤ系家庭に生まれたバダンテール氏はナチスドイツのユダヤ人の迫害で父親を亡くし、自身は地方に避難して無事だった。弁護士になってからは担当した被告人が死刑判決を受けてギロチンで処刑される現場に立ち会ったことから死刑廃止運動を始めた。すると1981年に当時のミッテラン大統領から法務大臣に任命された。フランスは当時、西ヨーロッパの中では死刑の廃止が遅れていて、国民の大半が死刑制度を支持していたが、ミッテラン大統領は死刑廃止を公約に掲げて大統領選に立候補した。そして選挙に当選したミッテラン大統領は、バダンテール氏とともに、政治的解決で押切り死刑廃止を実現した。廃止後、国民世論は徐々に死刑反対派が賛成派を上回るようになり、その後廃止当時に戻ったことは一度もない。バダンテール氏は死刑廃止制度によって再犯率が下がったことを指摘し、日本も政治的解決で、死刑廃止を行うべきと訴える。インタビューから5ヶ月後、バダンテール氏はその生涯を終えた。フランスではその死を悼み、国葬が営まれた。世界各地での死刑廃止の実現を訴え続けた人生だった。

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Instagramパリ(フランス)フランソワ・ミッテラン司法省

およそ67%が死刑に反対の立場のスペイン。しかし、厳罰化を臨む被害者の遺族もいる。ラウル・ガラ・エンフトさんは妹を殺害された。美術大学に通っていたクリスティーナさんはデゴビアで生まれ育ち、美術の知識をいかして観光文化大使も務めたことも。しかしクリスティーナさんは2000年に同級生の男の逆恨みされて40箇所を刺されて殺害された。禁錮20年の判決を受けた男は事件後から一貫して反省もなにも述べず5年前に出所。エンフトさんは刑の厳罰化を求めて活動している。妹が眠る墓地を訪れるエンフトさん。厳罰化を強く望む遺族がいる一方で、テロリストに夫を殺害されたマイシャベル・ラサ さんは死刑に反対する立場。夫のホアン・マリ・ハウレギさんとは幼馴染で初恋同士の関係だったという。固い絆で結ばれた夫婦だったというが、スペイン北部のバスク地方の地方議員として長年にわたりテロ事件を起こしてきた過激派組織のETA・バスク祖国と自由によるテロ事件が発生していたが、ハウレギさんはETAの3人組のテロリストに銃殺された。長い間苦しみ続けてきたラサさんは、前を向くきっかけになったのは修復的司法。加害者と被害者が直接話し合うことで加害者の更生と被害者の回復を目指す考え方。テロリストと遺族の対話プログラムはスペイン政府とバスク自治政府の協力で実施した。しかし加害者の罪が軽くなるわけではない。ラサさんは事件から11年後に直接の謝罪を申し出た犯人と面会に応じた。ラサさんは犯人の真摯な反省を聞き社会復帰するよう背中を押したという。

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ETA・バスク祖国と自由セゴビア(スペイン)ホアン・マリ・ハウレギ

ラサさんと面会した犯人は何を思っているのか?面会したルイス・カラスコ氏はその時は命令を冷酷に受け止めたが今では深く後悔しているという。修復的司法の場があったことで救われたという。出所後に公の場に出ることに消極的だったが、修復的司法の啓発活動をしているラサさんのために、自らも大学の講演に立つことを決意。カラスコ氏は出席した理由についてつらい経験を語るラサさんのそばにいてあげたかったと語った。カラスコ氏とラサさんとの最初の対話を調整したエステア・バスクアルさん。パスクアルさんの生徒たちもラサさんとカラスコ氏の講演に出席。修復的司法はEU・ヨーロッパ連合が導入を後押しするなどヨーロッパで広く浸透してきている。カラスコ氏と面談をしようと思った理由には命をかけてETAとの融和をはかろうとした夫の存在があった。死刑廃止を臨んでいる。

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フランシスコ・デ・ビトリアマドリード(スペイン)

世界では廃止が潮流となっている死刑制度。先進国の中で現在も死刑執行を行う数少ない国の日本とアメリカ。強盗殺人事件を起こした死刑囚を取材するためにアメリカ・テキサス州へ。その刑務所には現在も200人近くの死刑囚が収容される。面会ブースに現したレイナルド・デネス死刑囚。死刑制度の存在が分かれるアメリカで、最も多い数の死刑が執行されたアメリカのテキサス州。死刑の首都と呼ばれるハンツビルは州内で唯一処刑室があるハンツビル刑務所がある。アメリカで死刑施行が再開された1982年以降、最多となる595人の死刑が執行された。アメリカでも死刑施行を続けるのは減少傾向にある。テキサス州は州が死刑制度を維持するのであれば市民に死刑の実態を公開し議論してもらいたいとの考え方がある。日本の死刑囚は親族など限られた人以外は面会や手紙での交流はできず。しかしテキサス州の死刑囚は面会、手紙、ネットサービスで外部との交流が可能。デネス死刑囚は1996年に宝石店で店主を襲った。射殺し兄とともに逮捕され、死刑判決をうけた。キューバで生まれ、3歳のときにアメリカにわたったデネス死刑囚。学業不振で高校を中退し薬物に溺れた。家庭をもっても妻や子どもを顧みることなく、荒んだ生活を送った中での強盗殺人だった。死刑判決にデネス死刑囚は獄中で聖書と出会うことで、学ぶことの大切さを感じ、絵や彫刻活動の大切さを学び、自身の犯した罪と向き合うようになった。今は被害者を出してしまったことに後悔しているという。しかし死を恐れていないと答えた。しかし判決については不満を持っているという。共犯者の兄は自身が銃撃したことを認め、司法取引によって死刑を免れたが、デネス死刑囚は撃ったのは自分ではないと無罪を主張し死刑判決になった。また死刑についても犯罪の抑止にはならないという立場だという。

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テキサス州(アメリカ)ハンツビル刑務所ハンツビル(アメリカ)

被害者の遺族は死刑についてどう考えているのか?事件から29年間、メディアの取材を断ってきたという遺族の元へ。デネス死刑囚に夫を殺害されたニコール・ビソツキーさん。夫のヤノスさんは7年間の交際期間を経て結婚。5年にわたる結婚生活は幸せに満ちた日々だった。しかし、事件がすべてを変えた。宝石商だったヤノスさんは仕事で面識のあったデネス死刑囚に襲われ命を落とした。今でも愛しているというニコールさん。事件当時から捜査に携わり、その後もニコールさんを支え続けてきた捜査員はデネス死刑囚について死刑執行は当然と話す。一時は生きる気力を失ったニコールさんだが夫の事業を潰したくないという一心で店を守ってきた。29年の歳月が経過した今、死刑判決についてその責任から逃れるべきではないと語る。生涯、刑務所で向き合うべきとしたうえでなんとか許そうと努力を続けているという。ニコールさんは許そうと必死に務めるのは夫が慈悲深い人間だったからだという。

2025年4月にハンツビル刑務所では一人の死刑囚の死刑執行が予定されていた。日本での死刑執行は約90分前に本人に告知され、事前に外部に知らされることはない。テキサスでは数ヶ月前に本人や社会に告知される。反対派から離れた場所には死刑執行を支持する人も集まっていた。近隣の課外授業の一環で学生や教員も死刑制度を考えるために見学に訪れていた。この日死刑執行が予定されているのはモイセス・メンドーサ死刑囚は2004年にレイチェル・トールソンさんを誘拐しレイプした後殺害した。死刑予定時刻の午後6時が近づく。施行に立ち会うためにメンドーサ死刑囚の妻や友人が処刑室へ。被害者の遺族や許可を得たメディアもそのあとに続いた。ハンツビル刑務所内の処刑室では、ベッドの左手にある部屋に被害者の母親や遺族、記者らが執行を見届けようと待機。その隣の別の部屋にはメンドーサ死刑囚の妻や友人が立ち会っていた。午後6時3分には、処刑室にはいったメンドーサ死刑囚は、午後6時4分に革ベルトで固定。7分には死刑囚の腕に注射針がさされ、伸びたチューブは右手にある小さな穴を通じて医療チームの部屋にいる医師と繋がった。20分には死刑囚が被害者と遺族らに呼びかけ、罪を犯したことを懺悔した。21分には致死薬を投入。死刑囚はその後死亡が確認された。死刑執行にたちあったAP通信のマイケル・グラチェク記者は、これまで400人以上の死刑執行に立ち会ってきた。娘を殺した男の最後にたちあった母親が記者会見を行った。

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AP通信ハンツビル刑務所ハンツビル(アメリカ)レイチェル・トールソン
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エンディング

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