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オープニング映像。
2005年4月25日午前9時18分、JR福知山線の快速電車がカーブを曲がりきれず脱線しマンションに激突した。運転士1人と乗客106人が死亡。事故を起こした電車は制限速度を数十キロ超えるスピードを出していた。犠牲者も負傷者も1両目と2両目の乗客に集中した。一瞬の出来事で何が生死を分けたのか明確な答えはない。2007年、負傷者の中で最も重傷の一人と言われた鈴木順子さんは初めて現場を訪れた。順子さんは母親と暮らし、リハビリを兼ねて取り組む陶芸は仕事と話す。
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- JR福知山線(宝塚線)西宮市(兵庫)
順子さんは30歳の時に事故に遭った。設計やデザインの資格をとるため講習を受けようと大阪に向かっていた。順子さんが見つかったのは事故からおよそ5時間後、意識はなく性別も年齢もわからない状態で搬送する直前呼吸が止まった。家族が順子さんが病院に搬送されたと知ったのは随分後だった。内臓破裂と脳挫傷ですぐに緊急手術を受け、脳が受けたダメージは致命的だった。医師は家族に助かったとしても植物状態か一生寝たきりだろうと告げた。家族は順子さんの耳元で声をかけ、音楽を聴かせ、あらゆる刺激を与え続けた。事故から145日後、順子さんが言葉を発した。その後、順子さんは西宮市の病院に移り、時折笑顔は見せるものの表情はどこか虚ろだった。
事故から9か月が過ぎた頃、順子さんは神戸市内の病院に転院。脳挫傷の患者に時折起きる攻撃的な言動が増え「どうでもいい」と繰り返していた。長い介護生活に家族も疲れていた時に提案されたのはプールでのリハビリ。歩く感覚を思い出してもらうのが目的で順子さんは必死に足を踏ん張ろうとした。気がかりだったのは食事をしないこと。事故直後、口の中がガラス片で埋まっていた順子さんは生きるために飲み込まないよう耐えていた影響か、物を食べることを頑なに拒否していた。事故から11か月後、順子さんは退院した。順子さんは近所の人からもらったプリンを初めて口にした。この日を境に順子さんは食事を摂るようになり笑顔も増えていった。事故直後、腫れ上がっていた脳は約2年後には格段に回復したが記憶障害が残った。
2015年3月、事故から10年。順子さんは介助を受けながら料理をする余裕も出てきた。JR西日本とは補償交渉も終え区切りはつけた。この時、順子さんも母もも子さんも記憶障害に苦しんでいた。年齢や障害がなぜあるのか分からなくなり尋ねることも多く現実を記憶していくため張り紙を用意。2020年、父正志さんが亡くなった。
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買い物やちょっとした外出は2軒隣に住む石井さん夫婦が手伝ってくれることになった。正志さんは口数も少なく家を空けがちで夫婦はよくけんかをした。順子さんは10年ほど前から眩しさを頻繁に訴えるようになり、日光を避けたがり外出時はサングラスをかけることが増えた。リハビリの成果もあり自分で動ける範囲は格段に増えた。毎月2回、石井さんの運転で順子さんは宝塚市にある陶芸の工房に向かう。細かな作業は指先のリハビリにも適している。
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正志さんが亡くなって間もなくもも子さんは自宅の駐車場を一部改装して陶芸教室に使ってもらうことにした。順子さんは陶芸を自分の仕事と話すようになり、自宅の工房に集う仲間たちと作品展を開くことを目標とした。
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毎週金曜日、リハビリの送迎は姉の敦子さんが担当している。事故当時、まだ小さかった3人の子どもたちはそれぞれ成人し子育ては一段落した。右の手足は今も動かしにくい。筋肉の強張りがひどく、少し押すだけでも強い痛みが走る。
2023年6月、作品展に出すメインの大皿作りが始まった。8月、暑さもあり気分があまり乗らず。作り始めて3か月、自分のサインを掘った。ここから素焼きをして絵付けに入る。順子さんは魚を描きたいとずっと考えていた。いよいよ絵付け。下絵も準備した。順子さんは温かい海に生息するカクレクマノミを描く。右の利き手をうまく動かせないときは左手に持ち替えて描いていく。教室の他のメンバーも作品展の準備に取り掛かり始めた。ところが先生の武田さんが体調を崩した。食道がんが見つかった。抗がん剤治療後、手術を受けることになり陶芸はしばらく休止。
自宅でのリハビリ、階段の上り下りができた。昔は親子喧嘩が耐えなかったというが、今は穏やかな時間が増えた。母と娘の2人暮らしはすっかり定着した。2024年2月、3カ月ぶりに武田さんが復帰。ここから急ピッチで作品を仕上げていく。作品展は2025年春に開催することが決まった。
事故から19年目を迎えた。順子さんたちの記事が新聞に掲載された。JR西日本では7割の社員が事故当時を知らない。加害企業の責任を問い続ける遺族もいる。もも子さんも許せない気持ちもあるが表に出すことはない。電車の事故に遭ったという張り紙は40歳の時に書き直して以来、そのまま。2024年5月、自宅の駐車場を使った出張工房も復活。大皿の絵付けは佳境を迎え、絵付けが完成。作品展のタイトルは「Resilience~しなやかな回復~」。
2025年4月、作品展が始まった。これまで作ってきた作品70点を展示した。どれも50歳になった順子さんの人生が詰まったものばかり。陶芸を通じて繋がった新たな仲間の作品も。20年前、搬送された大阪の病院の医師も見に来てくれた。重体だった順子さんにとって当時、家族に厳しい宣告をした。長年、救急医療に携わってきて忘れられない患者の1人。順子さんが群れで泳ぐ魚を描いたのは支えられて生きてきた自分の姿と重ね合わせ記憶に留めておきたかったから。
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エンディング映像。