- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 椿鬼奴
今夜のゲストは椿鬼奴。千代田区生まれ、代官山育ちのお嬢様。その意外なルーツに迫る。
椿鬼奴が登場。椿は「(ご先祖様が)歌なんか歌っていたら嬉しい」などと話した。
オープニング映像。
椿鬼奴(旧姓・宮崎雅代)は昭和47(1972)年生まれ。雅代のルーツを探る。父方の祖父・武吉は弁護士だった。武吉の戸籍を調べると結婚するまでは井上姓だったことが分かった。雅代の5代前にあたる初代・井上嘉助は大阪・南久宝寺町の一角で筆記用の墨を扱う店の大番頭として店を切り盛りしていた。3代目・嘉助は病で43歳の若さで亡くなっている。3代目・嘉助の子どもが武吉。武吉は尋常小学校を卒業後、親戚のいる京都の乾物店へ丁稚奉公に出された。武吉は丁稚奉公をしながら現在の中学にあたる高等小学校を卒業。さらにその後は明進学館という夜学の学習塾まで通った。後に武吉は京都帝国大学に入学。武吉が31歳の時だった。卒業後は国家公務員の資格も取り、高級官僚への道を歩んだ。しかし、頑固一徹の性格が裏目に出て、わずか4年で退職。原因は上司との喧嘩だった。その後、連続テレビ小説「虎に翼」と同じ時期に弁護士になった。
武吉の次男として生まれたのが、雅代の父・康生。武吉は康生が6歳になると、今で言うお受験をさせ、大阪屈指のエリート校に入れる。自らの苦労した経験から学歴を重んじ、教育熱心だった武吉。家の中では近寄りがたく、威厳のある存在だったという。いつしか康生はあまり感情を表に出さない大人びた子どもへと育つ。大学を卒業した康生は鉄鋼関係の商社の営業部で働いた。瞬く間に営業部のエースとなっていった。そんな康生に熱い視線を送っていたのが8歳年下の摂野。後に雅代の母となる女性。
椿鬼奴は父のあだ名がブルースであったという事実に笑った。
椿鬼奴(旧姓・宮崎雅代)のルーツを探る。母方のルーツは喜界島にある。喜界島の郷土史に雅代の7代前にあたる文部仁知についての記述が残されていた。部仁知は喜界島を統治する薩摩藩に任命された地域の最高責任者の一人だった。しかし、明治に入ると喜界島の統治体制も変わる。曽祖父・政常の代では農業と漁業で生計を立てるように。そんな政常のもとに四女として生まれたのが、雅代の祖母・なす。当時、喜界島の暮らしは一層厳しいものに。大きな産業のなかった島で人々は主に半農半漁の生活で恵みを分け合って暮らした。これ以上島で暮らすのは難しいと進藤家の子どもたちも次々と島を出ていった。最終的に残ったのは11歳のなすと25歳のマツだけが島に遺された。なすは小学校卒業後、畑仕事や家事を担い、病気がちだった姉の面倒を見ていた。後になすは大阪へ向かい、家事手伝いなどをして暮らした。親戚からの紹介で、なすは野上元一郎と出会い、結婚。1年後、後に雅代の母となる摂野が生まれた。後に、元一郎は競馬で多額の借金を残して失踪。夫に代わり、なすは親戚中に頭を下げて借金を返済した。東京に居づらくなったなすは失意のまま大阪に移住した。
祖父がギャンブルにハマって失踪した話は親族間で有名。椿鬼奴も旦那もギャンブル好きだという。
椿鬼奴(旧姓・宮崎雅代)のルーツを探る。昭和38年、子どもたちを連れて大阪に戻ることになったなす。この時、高校を卒業したばかりの摂野だけが東京に残った。摂野は東京で働きながら、母を助けるために仕送りを続けた。そんな日々が2年ほど続いたある日のこと、失踪していた父・元一郎がひょっこり戻ってきた。借金を残して逃げたその身勝手さを摂野は許す気になれなかった。しかし、泣いて謝る元一郎をなすは黙って受け入れた。そして、摂野も大阪で働くことになり、家族はもう一度一緒に暮らすことに。元一郎は小さな鉄工所を開き、真面目に働き始める。ところが、わずか5年後、またしても失踪。やはり、ギャンブルによる借金が原因だった。借金取りは摂野の会社にまでやって来た。しかし、なすが「そんなことはさせない。殺すなら殺せ」と借金取りに凛とした態度で対応した。
椿鬼奴(旧姓・宮崎雅代)のルーツを探る。昭和41年、21歳になった摂野は鉄鋼関係の商社で働き始める。この時、出会ったのが営業部のエースとして活躍していた宮崎康生だった。2人は後に結婚。その後、康生の転勤で東京へ。翌年、長女として雅代が生まれた。この時移り住んだのが代官山の高級マンション。生活にも余裕があった。武吉に似て康生は教育に厳しい父だった。しかし、雅代は大学を卒業しても就職せず、アルバイトに明け暮れた。その日その日が楽しければ満足、そう思って飲み歩く日々が続いた。そんな時、友人に教えられたのがお笑い養成所の存在。雅代は習い事感覚の軽い気持ちで通い始めた。母でさえ理解しがたいお笑いの世界。まして厳しい父にはとても言えなかった。しかし、そんな時、一人だけ味方になってくれた人がいた。祖母・なすだった。康生は雅代がお笑い芸人をしていることを長年知らなかった。康生は「吉本で9年間くらいは下積みだったということですし、その間よく頑張ってくれたっていう気持ちが大きい」と語っている。
椿鬼奴は祖母・なすを思い出して涙した。
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椿鬼奴(旧姓・宮崎雅代)のルーツを探る。雅代に強い影響を与えた祖母・なす。70歳の時、故郷・喜界島への里帰りを果たす。島を出て以来、実に50年ぶりのことだった。再び戻ってきた夫・元一郎を受け入れ、その最期を看取った。そして、平成18年、なすは81歳でその生涯を閉じた。晩年、なすは「私は幸せだった」などと周囲に語っていた。
椿鬼奴は「苦労が多くてもおばあちゃんみたいに楽しくいたい」などと話した。
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