- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 藤あや子
藤あや子が登場。着物を褒められると、「一番いいのを持ってきました。ご先祖さまに会いますから」と話した。
オープニング映像。
藤あや子の旧姓は高橋、本名は真奈美。秋田県で生まれ育った。まずは父方の高橋家のルーツをたどる。最も古い戸籍に書かれた住所は秋田県仙北郡薗田村、現在は仙北市。高橋家を守る光さんは真奈美のいとこの孫にあたる。代々伝わる古い史料を専門家に読み解いてもらうと、高橋家の初代は仁右衛門という安土桃山から江戸時代を生きた人物ということが分かった。仁右衛門は一代で広大な荒れ地を開墾し、広げた田畑を子孫に分け、高橋家の分家の数は8つに上った。そんな分家のひとつに大正6年、四男として生まれたのが真奈美の父・定治。定治は幼い頃から活発で行動力のある少年だったという。昭和初期、東北の農村は記録的な凶作に見舞われた。農家の苦境は数年に及び、深刻な社会問題を引き起こした。高橋家の暮らしも困窮を極めたが、定治の心を癒やしたのは民謡だったという。
昭和12年、日中戦争が勃発。定治は陸軍に入り危険をともなう工兵になっていた。定治の部隊は満州へ向かった、高い緊張状態にあったソ連との国境付近での任務だった。定治は生き延び、昭和16年に陸軍を除隊。しかし、日本には帰らず満州にとどまる道を選んだ。定治が目をつけたのは満州の豊な食文化。持ち前の行動力を発揮して食堂をひらいた。そして、26歳の時にいとこの女性と結婚し長女が誕生。ところが戦争は激しさを増し、昭和20年に終戦。満州は混乱を極めた。引き上げ船が出ると聞いた定治は人数制限があったため妻と娘だけ先に日本に帰した。2人は秋田に無事戻ったが、すぐ戻るはずだった定治はなかなか戻ってこず、何の連絡もないまま2年の歳月が流れた。定治の妻は周囲の勧めで別の男性と一緒になったが、長女が小学1年生の時に突然定治が現れた。中国人になりすましていなければ日本に帰れず、それまで定治はしばらく中国人になりすましていたという。命からがら日本にたどり着いたが妻は他の男性と結婚した後だった。その後、定治は引き上げる途中に出会った女性と再婚し子を授かった。そして、これからの日本は肉の需要が増えると考え精肉店を開いた。その店にアルバイトにやってきた女性が鈴木ノリ子、後に真奈美の母となる女性だった。
父が満州で食堂をしていたことについて藤あや子は「商売をしていたことは知っていたが、何の商売かは知らなかった」と話した。
藤あや子が気になっていたという25歳で亡くなった母方の祖母・ヤスノ。そのルーツである奥田家から取材を始める。古い戸籍によると仙北郡下延村、父方と同じ現在の仙北市。奥田三平はヤスノの四代前の先祖。広い秣場を所有する村でも有力な人物だった。その孫として明治8年に生まれたのがヤスノの祖父である義夫。どうやら役者をしていたという。江戸時代から日本各地の農村では農民が演じる農村歌舞伎が盛んに行われていた。
ヤスノの祖父・奥田義夫の記録が横浜市の文学館で見つかった。義夫の弟が書き残した回想録には「兄はかなりもの好きな方で芝居もよくやった。下り役者といっしょに一か月も旅興行することは珍しくなかった」と書かれていた。そんな義夫の長女として生まれたのがヤスノの母となるマツ江。マツ江は13歳で地元でも名の知れた農家・川瀬家の養女になる。その後。辨之助と結婚し7人の子に恵まれた。その長女が藤あや子の祖母である川瀬ヤスノ。ヤスノは18歳の時に遊びに行った親戚の家で小さな農家の男性に見初められた。農家の妻となったヤスノは朝早くから夜遅くまで懸命に働いたという。ヤスノの実家の川瀬家には当時のヤスノの写真が残っていた。昭和16年に真奈美の母・ノリ子が生まれたが、その半年後ヤスノは重い病にかかった。実家の父はヤスノを引き取ったがすでに手遅れだった。実家に戻ってわずか1週間後ヤスノはなくなった。実家に戻ってわずか一週間後にヤスノは亡くなった。
藤あや子は祖母・ヤスノの写真を見た時に「私の手と似ている」と思ったと話した。
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- 川瀬ヤスノ
生後6か月で母を失ったノリ子は父親の元で育てられた。5歳の時に父は再婚し弟3人が生まれた。母の記憶がないノリ子は心を閉ざしがちになったという。中学卒業後は家計を支えるため近くの精肉店でアルバイトを始めた。その店を営んでいたのが高橋定治だった。昭和36年、定治は妻子に店を残して別れノリ子と一緒になった。2人が移り住んだのは角館だった。そこで生まれたのが真奈美、後の藤あや子。再び精肉店を開いた定治は満州で培った料理の腕で惣菜の販売も始め、コロッケは店の名物となった。
真奈美が楽しみにしていたのは9月に行われる角館の祭り。町内中を巡る山車は精肉店を営んでいた家の目の前を毎年通った。山車の上で披露されるのは手踊り。山車の上での手踊りにあこがれていた真奈美は同級生に連れて行ってもらったという。高校卒業後、真奈美は20歳で結婚し子どもを生むがその後離婚。女手一つで子どもを育てるため、民謡歌手の後ろで踊るアルバイトを始めた。さらに、民謡の練習にも励み、ステージで歌も披露するようになる。24歳の時に一般参加の歌番組に出演。それをたまたま見ていたのがレコード会社の音楽プロデューサーだった若松宗雄。スカウトされた真奈美だが、子どもを残して秋田を出ることはできないと断った。この時、真奈美の背中を押したのが父・定治。「大切なのは行動することだ」と説いた。そして平成元年、真奈美は藤あや子として売り出し、3年後に「こころ酒」が大ヒット。定治とノリ子はそんな真奈美を応援していたという。紅白歌合戦に出場した真奈美を病室のテレビで見届けた定治はその半年後、76年の生涯を閉じた。
藤あや子は「一番支えてくれたのが父だった。その父は紅白を見たきり、一度も私がステージに立っている姿を見ないまま旅立ってしまって、すごくそれは残念」と話した。
デビューから10年、記念曲として藤あや子が発表した「雪 深深」。降り積もる雪を繊細な指先で表現した。民謡の師匠・千葉美子さんは「ふるさとの手踊りの技が活きている」と話した。藤あや子の大叔母にあたる良子さんは親戚が藤あや子の手を見てぽつりともらした「なんてヤスノさんに似た手だ」と言ったことが忘れられないという。亡くなる間際まで働き通した祖母・ヤスノの手には農家の女性の思いと苦労が刻み込まれていた。藤あや子の母・ノリ子さんは平成15年に病を患い秋田で入院生活に入った。献身的に支えたヤスノの妹・良子さんは「ヤスノに頼まれたと思った。私の役割だと思った」と話す。その年の紅白歌合戦で娘の姿を心に刻むように見る姿が忘れられないという。それから9カ月後、母・ノリ子さんは63歳で亡くなった。藤あや子のファミリーヒストリーには、時代の波に翻弄されながら故郷・秋田で数々の困難を乗り越えてきた家族の歳月があった。
藤あや子は「本当に今まで一緒にいたかのような温かい気持ちになっています」と話した。
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