- 出演者
- タモリ 野口葵衣
立石寺(山寺)は860年に天台宗の高僧 円仁によって建てられたと伝えられる。松尾芭蕉の有名な句はここで詠まれたもの。年間70万人以上が訪れる。創建時に比叡山延暦寺から分けられた不滅の法灯が今なお燃え続けている。1015段ある石段を上がるごとに煩悩が消えていくという。昭和期には降りるためのすべり台があったという。参道から見える巨大な岩の表面には複雑な形の穴が空いている。信仰の対象となったこの岩は凝灰岩。約800万年前に大規模な噴火がありできたもの。こうした雲形侵食は凝灰岩に含まれる小石が落ちてできた穴に雨が降り凝灰岩の結晶が穴の近くにできて剥がれ落ちて穴が大きくなる。1メートルの穴ができるのに1,000年から1万年かかる。そこに山寺ができ信仰を中心とした町が生まれ大きく栄えた。
続いてタモリさんは山形駅の近くの山形城へ。今の山形市の礎を築いたのが最上義光という武将。1600年に上杉軍と戦い徳川家康の天下統一に貢献した。江戸時代のはじめに山形藩は全国5番目の大大名になった。山形城からは金箔瓦が出土し最上義光がかなりの力を持っていたことがわかる。門の外側には広大な三ノ丸が広がり最上家に仕える武士の屋敷で埋め尽くされている。城の大きさは全国5番目で東京ドーム50個分。山形は最上義光によって東北一の広大な城を持つ町へと生まれ変わった。タモリさんは三ノ丸の堀があったところまで歩いて城の広さを体感した。野口アナのお気に入りスポットは山形美術館。NHK山形放送局は三ノ丸の中にあった。当時3万人以上が住んでいたがその繁栄は長くは続かなかった。最上家はお家騒動などが原因で山形から飛ばされ外からきた大名が治めるようになり藩主が変わるたびに領地や家来の数が減少し幕末には五万石まで減ってしまった。城の中は畑や田んぼばかりになってしまったが城下町では商人たちがある商売で山形を生まれ変わらせていく。
続いてタモリさんは城下町の南側にあるパン屋さんへ。当時の山形商人の様子がわかるという蔵へ。江戸時代に紅花の商売をする許可証だった鑑札を見せてもらった。紅花は染料のもととなる花。高級な着物や口紅などに使われ高い人気を誇った。全国の特産物の番付では最上紅花が関脇に選ばれていた。山形で生産される紅花は全国の半分近くを誇っていた。紅花から作られた染料は最上川から日本海を通じ京都へと運ばれた。染料の塊ひとつを作るのに300もの紅花が必要でとても貴重なものだった。米の100倍、金の10倍で取り引きされ山形商人たちは莫大な利益を得ていた。藩主の力が弱まり自由な商売ができたことで紅花商売が盛んになった。経済力を持つ紅花商人には山形藩から金千両を用立てろという文書が届いていた。しかし江戸時代末期には安い紅花の輸入などで紅花需要は減少。
続いて城下町の北側へ。明治時代につくられた道を歩いた。文翔館の建物はもともと県庁だった。初代県令の三島通庸は古い武士の社会にとらわれない新しい山形をつくろうと三ノ丸のお堀の外側に県庁を建てた。三島は銀座煉瓦街の都市計画に参加し近代化を成功させた人物。初代山形県庁の近くには日本に入ってきたばかりの新しい建築様式が採用された警察署や師範学校があり東北初の西洋風官庁街が完成し全国屈指の先進都市に生まれ変わった。三島が山形に残したもう1つのものはサクランボ。近代化のひとつとして明治9年に海外のものをいち早く日本で栽培できるようにした。今では山形県産のサクランボのシェアは全国の約7割。山形のイメージが大きく変わったというタモリさんだが最後に「ちょっと言いたいのは最上の銅像は方向が違う。あれは生まれ変わってほしい」と話した。
エンディング映像。
「ブラタモリ」の番組宣伝。