- 出演者
- 堂真理子 大下容子 佐々木亮太 デーブ・スペクター 斎藤康貴 林美沙希 林美桜 中野信子 手塚悠介
広島出身の月丘夢路さんは映画会社の垣根を超えて映画「ひろしま」に出演することを決断した。インタビューでは「私が生まれ育った広島の話だから何とか出たいと思ったんですよ」と語っている。
映画「ひろしま」で女学校の教師を演じた女優・月丘夢路さん。1921年に広島で生まれ、宝塚歌劇団を経て銀幕デビューし大スターとなった。当時、俳優は所属映画会社の専属で他社の映画に出演することは出来ないという決まりがあった。しかし、月丘さんは「でも「ひろしま」はそうあってはいけないことですし、しかも生まれ育った広島の話だから何とか出たいと思った。何度も頼んでやっとでられたということだった。あの悲惨さはとにかく後の人に残したい。それが戦争の抑止力になればいいという考えだった」などと語った。
月丘夢路さんは当時松竹の専属女優だったが、スターというのは何らかの形で社会に還元しなければならないという考えを持っていた時に、映画「ひろしま」の話を聞きどうしても出演したいと思われたという。映画「ひろしま」の制作のきっかけとなったのは、1951年に出版された「原爆の子~広島の少年少女のうったえ」という本。広島大学の教授で自らも被爆した長田新さんが、広島で被爆した少年少女らの手記を編集したもの。当時、「原爆の子」をもとに2本の映画が作られた。1つは1952年公開の「原爆の子」で近代映画協会が製作し、内容は被爆者のその後が主な内容。もう一つは1953年の「ひろしま」で日教組が製作。内容は、いかにしてあの日を再現するかということを重要視していた。正確に再現するため、数多くの広島市民らが製作に携わっている。広島県内24か所でロケが行われ、8万8000人の広島市民らがエキストラ出演している。中高生や教職員らが手弁当で参加したということで、中には原爆を経験した人もいたという。さらに、戦時中の服装や防毒マスクなど衣装や小道具を住民から用意してもらい、全国の教職員が30円ずつカンパを募り、2400万円(現在の約1億円)を製作費にあてられたという。映画「ひろしま」は幻の映画と言われるようになる。なぜなら、1953年9月の中国新聞には「映画「ひろしま」の配給拒否旋風」といった見出しの記事が乗っていた。協力的だった大手配給会社が配給を拒否したという。理由は、内容が反米的だからだという。問題となったシーンは、高校生が「日本人が新兵器のモルモット実験に使われた」などといった本の一節を読み上げていることについて、配給会社はカットを要求したが製作側は受け入れず自主配給することを決定した。配給会社が問題視した背景に、1951年9月にサンフランシスコ平和条約に日本が調印し、同日に日米安全保障条約も結ばれたためだという。
映画「ひろしま」には市民ら8万8000人がエキストラとして出演していた。映画製作に参加した方に、被爆の実相を聞いた。87歳の早志百合子さんは、9歳の時に両親・弟と爆心地から1.6キロ離れた自宅で被爆した。家が潰され、一緒に20メートルくらい飛ばされた。家具などの下敷きになった弟とガラス片が体に刺さった母を父が救い出し、家族4人で燃える市内をさまよった。4人は2か月間野宿することになった。原爆投下から6年後、学校の指示で手記を書いた。編纂した長田新教授は、当時早志さんに渡した本の中に直筆で「幼き神の子の声を聞け」と思いを記している。早志さんは映画を撮るにあたり手記を寄せた「原爆の子 友の会」に声がかかり依頼が来た。当時17歳の早志さんは、原爆症と診断される女子高校生のクラスの生徒役として出演した。映画を作る意味についての説明があり、それを理解していないと協力はしていなかったという。当事者が撮影隊に教えないと、リアルな原爆の映画を作れないだろうという意義を感じていた。
映画「ひろしま」に出演した早志さんは初めて作品を観たのは映画ができてから20年後だった。当時の記憶が蘇り直視できなかったと話す。また20年前まで自らの被爆体験を話すことはなかった。映画では伝わらない部分を自分の口で語り継いでいけないと思い話し始めたとのこと。
早志百合子さんは被爆後に広島市の牛田へ逃げたというが、そこで同じ広島市民からの差別に直面したという。さらに被爆から5年後の中学2年生の時に、アメリカの原爆傷害調査委員会に拉致されて様々な検査を受けさせられたという。1年に1度の検査は約4年続いたとのこと。早志さんは悔しさのあまり母に抱きついて泣いたというが、そこで母親に「日本は負けたんじゃけ」と言われたのを覚えているという。
早志百合子さんは被爆から10年後にバスガイドになったというが、原爆の爪痕が残る街を紹介することができないとの思いで、泣く泣く自らバスガイドの夢を諦めたという。また同じ広島でも場所によって被爆の実相が異なり、広島県内でも差別・偏見が多々あったという。デーブ氏は被爆者の苦労は一生残るもので、早志さんの記憶の鮮明さから当事者にとっていかに重大なことだったかがよく分かるなどと述べた。中野氏は軍部が原爆の被害の状況を隠して戦争を続けようとしたことなど、現代の基準では考えられないことにも目を背けず向き合うべきなどと述べた。映画「ひろしま」は、広島市中区の八丁座で 今日から上映が始まるとのこと。一部の動画配信サービスでも視聴ができるとのこと。
イギリス東部サンドリンガムではサンドリンガム・フラワー・ショーが行われ、チャールズ国王とカミラ王妃が訪問している。花や野菜の展示やフラワーアートを楽しむことが出来るのが特徴となっている。
イギリス東部サンドリンガムではサンドリンガム・フラワー・ショーが行われ、チャールズ国王とカミラ王妃が参加している。ガーデニング好きで知られるチャールズ国王夫妻だが、カミラ王妃が立ち止まったのはチャールズ国王をまねて作ったというパイだった。
ロンドンではキッチンカーからウィリアム皇太子が現れ、客はサプライズに驚く姿を見せていた。ウィリアム皇太子は環境保護に貢献した人を称える「アースショット賞」を立ち上げているが、この表彰の宣伝のために駆けつけたのだという。そして、キッチンカーで売られていた「アースショットバーガー」は海藻で作った容器が使われているのだといい、プロジェクトの準備段階からこだわり続けたという。
突然キッチンカーの中から現れ客を驚かせたウィリアム皇太子。実はバーガーを準備する時から参加していた。そして自身が立ち上げたアースショット賞について説明をした。その中で自虐ネタを入れ周囲は妙な空気に包まれた。当の本人は気にすることもなく自らの思いを語った。
パイについて、現地メディアは「His Royal Hiness」を「His Royal Piness」にしたり「バーガーキングになる」と遊びを入れている。フラワーショーが終わるとチャールズ国王夫妻は夏休みに入ると言われていて、すでにスコットランドを訪れている。ウィスキー蒸留所を訪れ、その時にはキルトを着用していた。王室メンバーがスコットランドを訪問する際、キルトを着用するのは何百年前からの慣習となっている。だがなぜかウィリアム皇太子は幼い頃から着用するのを拒んでいるという。過去にウィリアム皇太子は着てはいたが、1997年ごろから息子2人はキルトを着用していなかった。そのため、1990年の写真がキルトを着た最後の写真ではと言われている。ウィリアム皇太子はこれについて説明したことはないが、母・ダイアナ元妃もスコットランドのものをあまり好まなかったという。来週水曜日、ヘンリー王子が4年ぶりに来日する。
今日から公開の映画「しん次元! クレヨンしんちゃん THE MOVIE 超能力大決戦 ~とべとべ手巻き寿司~」から、しんのすけがゲストで登場。しんちゃんは、最近は赤いシャツではなく黄色のシャツを着ている。今回の映画は、初めて3DCGアニメになった。
このあとは「徹子の部屋」。