- 出演者
- 矢作兼(おぎやはぎ) 狩野恵里 ビビる大木 大島美幸(森三中) 大竹しのぶ 小木博明(おぎやはぎ) 綾野剛 稲田美紀(紅しょうが) 芳根京子 熊元プロレス(紅しょうが)
オープニング映像。
赤羽駅で家について行っていい人を探す。だるま職人のさきさんに交渉しOKをもらった。元々母のお店が工場にオリジナルデザインを依頼していたが手直しが多かったため、さきさんが作るようになったという。自宅にお邪魔すると、職人感を感じないオシャレな内装だった。
だるまは病気や災難を防ぐ縁起物で願掛けの意味もある。さきさんの祖父は「おしん」にも出演した俳優の高橋悦史さん。時代劇を中心にドラマ・映画などで活躍し黒柳徹子さんとは文学座附属演劇研究所での同期。
さきさんの名前は祖父が命名してくれたという。「自分の名前を書く度に思い出して愛情をふとした時に感じる」などと話した。黒柳徹子との文通でも孫が生まれたことを報告していた。膵臓がんで余命半年と言われていたが、母が妊娠してから2年くらい余命宣告を覆したという。さきさんは「だるまが想いを形に残す1つのツール。誰かに向けて1個の応援のツールになったら嬉しい」などと語った。
上野駅で家に連れてってくれる人を探す。そこで自転車で上野駅を訪れていた鏡味仙成さんに交渉して同行させてもらうことになった。鏡味仙成さんは太神楽師をやっているという。東京で30数人くらいしかいないという。15歳で芸能の道に入って芸歴6年だという。現在の家は住んで4年になるという。仕事道具は手作りしている。給料は動員数によってかなり違うと説明した。鏡味仙成さんは学習障害で字が読めないと明かした。
「SHINOBU OTAKE ANNIVERSARY LIVE TOUR 2024 50th? 51st? Music Night Party」の告知。
鏡味仙成さんは学習障害のディスレクシアの影響で文字を理解することができず、勉強では設問がわからないので白紙のままテストを出しており、通知表は1とか2でバカ扱いされていたと語った。太神楽は人のできないことをして褒められるので良いと語った。男性は太神楽が天職だと思うと語った。また将来は人間国宝になりたいと思いを語った。
取材から5年、再び鏡味仙成さんのご自宅を訪ねた。畳付き2Kのお家に引っ越していた。現在は10ヵ月ほどの年上彼女がいるという。前回の放送がきっかけで、学習障がい・発達障がいの子達の前で太神楽を披露する仕事や講演会が増えたという。しかし2年前、師匠は食道がんで亡くなったという。最後の稽古で師匠から託された技は携帯に残っている。
最後の稽古で師匠から託された技「籠鞠」は鏡味一門の十八番のひとつ。鏡味仙成さんは現在習得中だという。また師匠が作り上げたコンビ芸「花笠」を兄弟子と引き継いでいる。人間国宝になりたいという夢は変わらず目指し続けていると話した。
鏡味仙成さん、鏡味仙志郎さんが登場し太神楽曲芸を披露した。
新小岩駅で家について行っていい人を探す。美空ひばりファンの79歳と77歳の女性に交渉してご自宅にお邪魔した。
美空ひばりファンの79歳と77歳の女性2人のご自宅にお邪魔した。2人は缶ビールで乾杯し二次会を開始。スタッフそっちのけで盛り上がる2人にスタッフも何とか話を振るが会話が噛み合わず帰れオーラを漂わせた。撮影時間が結構長いというのを説明していなかったため、早々に切り上げることになった。
四ツ谷駅で家について行っていい人を探す。マリリン・モンローファンの推し活をする男性に交渉し部屋の片付け後に取材許可をもらった。4ヵ月後、約束の時間に訪問したがまだ片付け中だった。部屋の中は大量の物で溢れていて足の踏み場がなかった。
マリリン・モンローについて「亡くなったことで伝説になったのが一番」などと話した。マリリン・モンローの毛髪や直筆サインなどお宝グッズを多く所持している。一番心に残る明言は「シャネルの5番」だという。
業者を呼んでゴミ屋敷の大掃除を番組でお手伝いすることになった。作業開始から5時間、マリリングッズのディスプレイをスタッフがお手伝いして片付けが完了。
お正月の過ごし方について、綾野剛は箱根駅伝、芳根京子は実家で母とおせち作りだと話した。今回は番組ADの帰省を兼ねて実家の薬蔵寺で収録している。
農業神の結婚を祝う阿蘇神社の火振り神事で、祭りに来ている方に屋台での飲食代を支払うかわりに家を見せてもらう取材を行った。そんな中、燃えカスを見ていた中島昌彦さんが家を見せてくれることになった。父と祖母と3人で暮らしていた中島さんは、結婚して東京に暮らしていたが、熊本地震の時に自分だけ地元に戻ってきたと話す。中島さんは東京ではフリーランスのディレクターを10年ほどしていたが、今は動画をつくっているという。
家についた中島さんは、ニワトリがいる納屋を見せてくれた。家には祖母と父が出迎えてくれて、母は早くに亡くなったと中島さんは話す。スタッフは中島さんの祖母や父が振る舞ってくれたカレーライスを食べながら、祖母が戦後初めて阿蘇神社で結婚式を挙げたと聞いた。その後、中島さんは熊本地震の後に倉庫をぶち抜いた部屋で、行政向けのPRや熊本県のPR動画などをつくっていた。現在は阿蘇神社の許可をとって動画を撮っていた。その動画では、阿蘇神社が復旧していく様子がおさめられていた。
阿蘇神社の復旧の様子を中島さんは撮りためていた。一般の人は見ることのできないこの復旧の様子のその映像を見た人がお賽銭を入れて復旧が早まるロジックだと中島さんは話す。奥さんとの結婚式も阿蘇神社であげるなど、中島さんは人生の節目でかかわってきたという。そのため、自分の動画で気持ちを繋げたいと思ったと中島さんは話す。これから神社の復旧を追うのと収入の安定を目指したいと話す。
取材から4年7ヵ月後、再び中島さんのご自宅を訪ねると父が出迎えてくれた。