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松本竣介の足跡を緒形直人がたどる。
オープニング映像。
1988年のある日のこと、松本竣介のご子息のカンボーと呼ばれた松本莞さんの家に一人の男が訪ねてきた。遺された絵を見せてほしいと言ってきたがその人はいくつかの絵やデッサンを貪るようにみつめ宝物のように向き合っていた。数日後に再びやってきて、それでもじっと見つめるばかりだった。
松本竣介の絵は街を愛し独特のタッチで描いた。豊かな色彩と力強い線描が奏でる世界で無音の風景を絶賛された。ナゼ無音なのか理由がある。
1912年東京・青山に生まれた松本竣介は、父が林檎酒を醸造する事業に着手したために家族で岩手にうつり少年時代を花巻と盛岡で過ごした。成績優秀で名門岩手県立盛岡中学校に首席で合格するが入学式の途中に激しい頭痛に襲われた。流行性脳脊髄膜炎になり生死をさまよっや末に聴覚を失った。嘆き悲しむ家族に竣介は耳が聞こえなくても困らないと話し音なき世界で行きていくことに。画家を志したのは上京していた兄から気晴らしにと油彩道具一式が送られてきたことがきっかけ。すぐにのめり込み、本格的に絵を学びたいと上京した。
多くの友に恵まれ、長谷川利行や鶴岡政男など後の画壇に新風を吹き込む者たちと切磋琢磨した。あだ名はフルポンでフルーツポンチのように甘い顔立ちがその由来だったという。行動範囲は山手線の内側と決めていたが耳が聞こえないために一人で遠出をしなかった。手製のスケッチをもって自宅のあった下落合から新宿、代々木、御茶ノ水、神田、東京駅界隈へとスケッチをしていた。
松本竣介の足跡を緒形直人がたどる。岩手県立美術館に竣介が描いた街の風景が残されている。あおい透明な空間に浮かび上がる人々。細い線描が微妙な色調と渾然一体となった幻想の街。賑やかなはずなのにどこまで静謐で音なき世界の叙情に溢れている。竣介を虜にしたのは建物。国会議事堂を描き、ニコライ堂はあらゆる角度からじっとみつめた。
雑誌編集者の妻の禎子と結婚したのは1936年。子どもにも恵まれ莞と名付けた。そして戦争が始まった。神奈川県立近代美術館には今日の一枚の松本竣介作の「立てる像」がある。縦162センチ横130センチでキャンバスに油絵で描かれている。空がぼっかり浮かぶ灰色の空はなぜか爽やかで画面の下に広がるのは暗いゴミ捨て場。その荒野にりんと立つ青年の姿で開戦の翌年に描かれた。
大地を踏みしめ、竣介の好きなものが沈黙の中にある。長門さんは絵肌の美しさと透明度があり薄塗りで心情的な透明さと響き合うという。なにより気になるのはその視線だがその解釈に虚ろ、意思を持っていると言われている。
終戦を迎える2ヶ月ほど前には疎開先の一人息子の莞くんに絵手紙を送っている。
都内に住む松本莞さん。莞さんは父と8歳まで一緒に暮らした。緒方は莞さんから父から数日に1通のペースで送られた手紙を見せてくれた。こよなく街を風景を愛した画家が家族と暮らした変わり果てた街を描いている。また莞さんは緒形直人の父の緒形拳がこの家に訪ねてきていたという。莞さんはその様子にデッサンをみてもう一回観たいと何回か家を訪れた。その時に土産物をもらったという。またこの取材の前に緒方には竣介のあだ名だったフルーツポンチを食べてもらった。父の緒形拳から松本竣介という画家を紹介してもらっていたという。その松本家に残したお礼の化石と手紙には緒形拳と直筆のサインが。
松本竣介の「立てる像」はなぜ時代を越えて愛されているのか?長門さんは人物像であると同時に風景画という見方もできるという。
松本莞さんは今年85歳。今建築家として生きてきた。父との会話に空中に字を書いて伝えていたという。絵手紙は今も大切に残されている。
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緒形直人は父の緒形拳からはがきをもらっていたという。
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