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オープニング映像。
北海道の十勝平野は原野を切り開いた土地。その北西部にある、鹿追町は神田日勝が暮らした町。神田日勝記念美術館を訪れた八木亜希子。1993年に開館し有志などによって建てられた。その中には今日の一枚の馬(絶筆・未完)は縦183センチ、横204センチ。ベニヤ板に描かれた油彩画。まるで別の世界からふっと現れたような不思議な浮遊感。後ろ脚のない馬は静かに佇んでいる。緻密に描かれた密生する毛のやわらかさと湿り気、心臓の鼓動や体温さえも伝わってくるぬくもりがある。潤んだようなその眼差し。こすれたように毛が薄くなっている部分もある。この黒い馬は筆で描いたものではないという。
神田日勝の馬はペインティングナイフで描かれている。ベニヤ板に描いているが、ナイフの先にベニヤ板の手応えが音を感じながら描いていたという。さらに、この作品から、日勝独自の描き方があり、端から描いていく。ブロックごとに毛並みを整えていくというやり方で描いていた。
神田日勝は昭和12年東京・練馬生まれ。日勝は日本は戦争に勝つようにと父親が名付けた。昭和20年8月には鹿追町に入植。神田家の住居跡。与えられたのは500タールの原野で、農業経験のない都会育ちの家族は過酷な十勝の自然と格闘しながら新天地で生活を始めた。家という作品は、鉛色の空に、板張りの簡素な家が。古靴が放おり出され散らばっているのは砂糖の原料となる箱の残骸。赤い自転車は現金収入を得るために郵便配達をしていた父が使っていたもの。日勝は中学を卒業後に農業を継いだがそれが当然だと思っていた。神田家の土地は、熊笹が根をはり、石ころなどが沢山植わっていた。人の力だけではどうにもならない台地を馬とともに耕し、汗を流した。日勝の兄の神田一明は画家になった。兄から油絵の手ほどきをうけた日勝は19歳で初めて展覧会に出展する。馬喰に騙されて買ったやせ細り動けなくなった馬を描いた。
神田日勝の馬の絵の作品には共通点がある。馬の絵にはところどころ毛が薄くなっている場所がある。理由は輓馬なため。機械化が普及する前に十勝の開拓をささえたのは、輓馬と呼ばれる農耕馬だった。輓馬は畑を耕し、重い荷物を運ぶために胴引きという装具をつけていた。何百キロという重量が馬体にかかり、胴引きがこすれて薄くなってしまう。日勝はその部分も丁寧に描いた。皮膚があらわれ、血管が見えている様子を労働の証とした。今も輓馬は十勝で育てられている。フランスの農耕馬をルーツにもつガッシリとした、輓馬はサラブレットの2倍以上の体重があり、文字通り馬力のある馬。穏やかで我慢強い性格が特徴。共に暮らし働いた馬は日勝にとってかけがえのない相棒だった。しかし描いたのは、働く馬ではなく労働から開放されて納屋で休息する姿。人間に尽くし続ける馬を誇らしく、感謝するように描いている。
日勝は22歳で一人の女性と出会ったが妻となるミサ子。しかしそんな家族を襲ったのは大冷害。じゃがいも一つ取れない過酷な時期が翌年も続いた。離農していく農家もいる中で、日勝は画家として名が少しずつしれていき、わずかに絵が売れるようになり、表現の幅も広がっていった。身近物を描きその描写力や鮮やかな色を取り入れた。その色彩は爆発していく。
日本万国博覧会が1970年にスタートした頃、神田日勝は作品に室内風景という作品を発表。壁も床も一面に新聞紙を貼り付けた部屋で膝を抱えた男が一人。新聞記事や広告のすさまじいまでの緻密な描写。全てナイフで描いた本物そっくりなものたちが床に散らばっている。その沈黙の中に鮮やかな色彩。無表情の男の目は、巨大な社会のメカニズムの中で残されていく不安や、虚しさを無言で訴える。
神田日勝は馬の作品を描いている時、体調不良に見舞われ絵を完成させることができなかった。重い敗血症となった日勝は32歳で亡くなった。こうして未完の馬だけが残ったが、妻は幼い息子の言葉にドキッとしたが、父がアトリエにいる気がした等と話していたという。
次回の「新美の巨人たち」の番組宣伝。