2023年12月11日放送 22:00 - 22:45 NHK総合

映像の世紀バタフライエフェクト
エベレスト 栄光と狂気

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(オープニング)
今回は…

世界最高峰のエベレストの頂に挑み続けたイギリスの登山家、ジョージ・マロリー。1924年、彼はその頂上を目前にして消息を絶つ。8848mの頂上への到達は、20世紀に残された最後の挑戦だった。マロリーが果たせなかった夢はその29年後にヒラリーとテンジンによって果たされる。しかし、クライマーたちはより過酷な条件を自らに課しながらエベレストの頂を目指し続けた。トップクライマーにとって価値あるものは、「前人未到」の領域のみ。今回は、世界一の頂に取り憑かれた男たちの栄光と狂気の物語。

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オープニング

オープニング映像。

(映像の世紀 バタフライエフェクト)
エベレスト 栄光と狂気

1924年、150名のポーターを従えたイギリスの遠征隊がエベレストに挑んだ。計画はインドのダージリンからチベット高原を経由し、北側から山頂を目指すというもので、遠征隊は標高5100m地点にベースキャンプを設営した。イギリスは1852年に植民地であったインドの測量を実施する過程でこの世界最高峰の山を発見し、当時のインド測量局全長官の名を冠して「エベレスト」と名付けた。1924年の登頂計画は第一次世界大戦で疲弊した国民を鼓舞するための国家事業として行われたもので、登山メンバーは国家の名誉のために無報酬で参加した軍人や学者たちだった。彼らの中でも図抜けた登山家として知られていたのが、当時37歳のジョージ・マロリー。危険な岩場を登ることを至上の喜びとしていた男だった。彼は登頂計画の資金を集めるために赴いたアメリカで、ニューヨーク・タイムズの記者から「なぜエベレストに登るのか?」と問われ、こう答えている。「Because It’s there.(そこに山があるからだ)」。

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1924年4月30日、マロリーの遠征隊はベースキャンプを出発する。登山計画は6500m地点から「ノース・コル」と呼ばれる平坦な場所へ登り、さらに稜線を辿って頂上へと至るというものだった。遠征隊にとって最初の難敵となったのが標高7000mの「ノース・コル」へ至る高さ400mの氷壁。マロリーはほぼ垂直の氷壁を先頭に立って登り、7時間に及ぶ奮闘の末に遠征隊は「ノース・コル」へと到達した。氷点下30℃を下回る気温の中、隊員たちは重ね着したシャツとツイードのジャケットという当時精一杯の防寒具で寒さを凌いだ。そして、標高8000mを超えると寒さに加え酸素不足が隊員たちを襲った。酸素濃度が地上の3分の1という過酷な環境に耐えるため、マロリーは酸素ボンベを背負っての登頂を決断する。15kgのボンベを背負っての登山は過酷なものとなるため、山頂にはマロリーと最年少の隊員であるアンドリュー・アーヴィンの2人だけで挑むことに決まった。6月6日、マロリーとアーヴィンは頂上を目指して拠点を出発。それから2日後、標高8700m地点を登っている姿が望遠カメラで確認されたのを最後に、2人は雲の中へと消えていった。彼らが頂上に到達できたのか、それとも届かなかったのかは誰にも分からない。

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第二次世界大戦が終わると、エベレスト周辺は大きな政治的動乱に見舞われた。1950年10月には中国がチベットに侵攻し、外国人の入国が禁じられる。一方で、ネパールが鎖国政策を転換したことで南側からエベレストに登るルートが開拓された。1953年3月10日、イギリスはネパールに14人の隊員と350人のポーターからなる大遠征隊を送り込み、エベレストへの挑戦を再開した。ナイロン素材を使ったテントや保温性に優れた登山靴、軽量化された酸素ボンベといった新装備を携え、遠征隊は5300mにベースキャンプを設置。そのすぐ上には長さ1000mに及ぶ大氷河が流れ落ちる難所「アイスフォール」が待ち受けていた。この難所に切り込んだのが、当時33歳のエドモンド・ヒラリー。氷壁の登攀技術に長けていた彼は10日を費やし、いつ崩れ落ちるか分からない氷壁にルートを作り上げた。このルートを辿ってシェルパたちが荷物を運び、遠征隊の登山を支えた。シェルパを率いていたのは、戦前からエベレスト遠征の手助けをしていたベテランのテンジン・ノルゲイ。テンジンはその強靭な体力と精神力の強さによって、世界中の登山家から注目されるシェルパだった。

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遠征隊は標高5300mのベースキャンプを起点に物資を運搬しながら各地にキャンプを構築し、標高8000m地点の「サウス・コル」から少数の隊員が頂上を目指す「極地法」という方法でエベレストにアプローチすることを決める。頂上へのアタックを行うメンバーに選ばれたのは、高地に最も強かったヒラリーとテンジン。5月25日にキャンプを出発した2人は、猛烈な寒さに打ちひしがれるながらも歩みを進め、出発から5日目となる1953年5月29日に切り立った細い稜線の上に広がる、12mの壁面に到達。ここは後に「ヒラリー・ステップ」と呼ばれることになる、最大の難所だった。ヒラリーとテンジンは氷と岩の隙間に身体をねじ込みながらこの壁面を登り、午前11時30分にエベレストの頂上へと到達。人類が初めて、8848mの頂を制した瞬間だった。

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ヒラリーとテンジンによる登頂成功後もルートや条件を変えながら各国はエベレストへの挑戦を続けた。1960年5月25日には中国隊がマロリーが目指したのと同じ北側からのルートで登頂に成功し、1963年5月22日にはアメリカ隊が前人未到の西稜から初登頂を果たす。1970年には日本も登頂に挑戦し、5月11日に松浦輝夫と植村直己の2人が山頂に到達。1978年にはイタリアのクライマーであるラインホルト・メスナーが無酸素でのエベレスト登頂に挑戦する。メスナーは少人数のチームで山頂まで一気に登る「アルパインスタイル」と呼ばれる手法を用い、標高6400m地点の拠点を出発してから僅か3日で無酸素初登頂を成し遂げた。それから2年後の1980年8月20日、メスナーは単独での無酸素登頂も達成。前人未到の偉業をなしたメスナーは後にこう語っている。「エベレストの偉大さを理解し、感じ取るためにはどうしても酸素マスクなしで登らなければならない。私の願いは、エベレストの壮大さ、困難さ、厳しさのすべてを知ることだった」。

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1991年、ソビエト連邦の崩壊によってエベレストは大きな転換期を迎えた。ソ連の莫大な軍備が縮小されたことによって、軍用機に使用されていた酸素ボンベが大量に市場へ出回ったのである。旧ソ連の酸素ボンベは従来の半分以下の重量でありながら、より多くの酸素を詰めることができた。このボンベの登場により、エベレストの登頂は遥かに手軽なものとなった。こうした事情を受けて登場したのが、プロのクライマーが経験の浅い登山者をエベレストへガイドする商業公募隊だ。重いボンベはシェルパが背負い、難所はプロのクライマーが先導するこの登山隊に参加していたメンバーの多くは高額な参加費用を支払える富裕層のアマチュア登山家だった。しかし、この商業公募隊は後に大きな惨劇に見舞われる。1996年5月10日、下山中の天候悪化により2つの商業公募隊が遭難し、アマチュア登山家とプロクライマー、合わせて5人が亡くなったのだ。

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世界最高峰のエベレストは時に、多くの記録の舞台となってきた。1988年にはフランスの冒険家、ジャン=マルク・ボワヴァンが山頂からパラグライダーでの滑空を成功させ、2001年にはマルコ・シフレディがスノーボードで山頂からの下山を実施。日本の三浦雄一郎は2013年5月23日に80歳で登頂を成功させ、世界最高齢での登頂記録を打ち立てた。

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エベレストの玄関口、ネパールのルクラにはエベレスト初登頂を成し遂げたヒラリーが相棒であるテンジンたちシェルパのために作り上げた滑走路を整備したテンジン・ヒラリー空港が残っている。空港が整備されたことによってシェルパの村には多くの観光客が訪れるようになり、シェルパの貧しい暮らしは大きく変わった。土産物屋やホテルの経営、アイスフォールのルート構築といった仕事でシェルパは豊かな暮らしを手にし、多くのアマチュア登山家が訪れるようになったエベレストには豪華なベースキャンプが立ち並ぶ。こうしたエベレストの姿を前に、単独無酸素登頂を果たしたメスナーは次のような言葉を寄せた。「エベレストは下から上まで、テントと固定ロープだらけです。酸素ボンベも設置してあり、通信も可能で、なんだか遊園地みたいです。少しだけ危険で寒いというだけで」。

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世界のトップクライマーたちが目指すのは、もはやエベレストではなくなった。「前人未到」の地で市の危険を潜り抜けることを至上とする彼らが目指すのは、垂直の岸壁を登るぎりぎりのクライミングだ。そうしたクライマーたちの一人、山野井泰史は10本の指を失ってなおも世界中の岸壁を巡り、「前人未到」に挑み続けている。

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1986年、エドモンド・ヒラリーと共にエベレスト初登頂を果たしたテンジン・ノルゲイが生涯を終える。彼の葬儀にはヒラリーが唯一の外国人として駆けつけ、共に頂を制した友を悼んだ。それから13年後の1999年、エベレスト北面の8160m地点でうつ伏せに倒れた遺体が見つかった。ミイラ化した遺体が着用していた服に刺繍されていたのは、「ジョージ・マロリー」の名前。1924年を最後に消息を絶ち、75年の眠りを終えて見つけられた彼が登頂を果たしたのか否かは現在も明らかになっていない。多くの謎を抱えたまま世界の頂に眠る彼は、生前に発した「Because It’s there.(そこに山があるからだ)」に続けてこう語っている。「エベレストは世界で一番高い山だ。その頂に到達した者はひとりもいない。その存在自体が挑戦なのだ。エベレストに登るのは、宇宙に到達したいという人間の欲望の一部であり、本能なのだ」。

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(エンディング)
エンディング

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次回予告

映像の世紀 バタフライエフェクトの次回予告。

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