- 出演者
- 渡邊佐和子 佐藤二朗 上里隆史
オープニング映像。
今回、調査するのは首里城と琉球王国。佐藤二朗は息子が生まれる前、奥さんと沖縄を旅し、最初に首里城に足を運んだという。首里城は沖縄戦で失われ、1992年に復元された。だが、2019年の火災で主要な建物が焼失した。
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- 首里城
首里城では復元工事が行われていて、正殿は骨組みまで出来上がっている。琉球王国の王家、尚家に伝わる史料を紐解くと、沖縄北部の地域でとれた材料で弁柄(顔料)を塗装に使っていた。よりオリジナルに近い正殿の復元を目指しているという。正殿の中心部、御差床は玉座がある部屋で、そこには額が掲げられていた。史料によると、黄色で彩られていたといい、黄色は中国において、皇帝、皇族関係者に限って使われていたという。琉球王国と中国は密接な関係で結ばれ、国王が代替わりするたび、中国から使節が招かれ、新国王を承認する儀式が行われていた。
琉球王国は漆器を輸出し、ヤコウガイという貝殻を使った螺鈿細工は中国で珍重された。科学調査の結果、漆はタイ・ミャンマー産で、輸入した原料を自国の工芸技術に活用していた。なお、中国からやってくる使節団は500人にのぼり、半年にわたって滞在。料理には力を注ぎ、1度に49品も提供されたという。花火の仕掛けでも使節団を歓待したと考えられる。
琉球王国が中国と君臣関係を結ぶことを冊封といい、貢物を携えて訪中することを朝貢と呼ぶ。その際に貿易が認められていた。中国から厚遇されるほど、ビジネスチャンスも増えていったという。高価な品々も琉球王国にもたらされ、世界的に珍重されていた陶磁器を海外に転売することで利益をあげた。
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- 冊封体制
琉球王国は使節団を江戸幕府に送っていて、物珍しさから使節団の情報が記された冊子が飛ぶように売れたという。1609年、薩摩藩が琉球王国に侵攻し、琉球は薩摩を通じて幕府に恭順の意を示した。ただ、中国とは君臣関係にあり、江戸幕府にも従っていると露呈すると外交問題に発展しかねなかった。中国の使節団が来日した時、着物、お金や焼き物など日本のものを隠匿するよう士族、庶民に厳命されていた。墓は土に埋め、使節団が帰った後、掘り返していたという。
日本産のものを隠し通すことができないと、むち打ち、牢獄行きが待っていたという。ただ、江戸幕府と琉球王国の繋がりを中国は察知していたが、外交問題に発展するのを避けるためか見て見ぬふりをしていたという。
ペリーは久里浜に上陸する約1か月前、沖縄に上陸していた。琉球王国は水、燃料などを提供。江戸幕府との条約締結後、ペリーは琉球に条約による開港を求めた。琉球王国の官僚、尚宏勲は「国家の大事は中国の指図を得なくてはならない」と伝えたが、アメリカ側は一蹴。遡ること10年前、中国清王朝はアヘン戦争で敗北し、イギリス、アメリカなどと不平等な条約を結ばされていた。日本との繋がりは隠し通すことに努めてきたことが災いし、琉球王国は単独でアメリカとの交渉を続けるほかなかった。1854年7月11日、琉米条約を締結。その後、明治維新で近代国家として歩みだした日本は琉球の併合に取り掛かり、新政府はアメリカは水面下で交渉。1879年3月、明治政府は琉球に軍と警察を派遣し、沖縄県設置を宣言した。450年続いた琉球王国は滅亡した。
琉球王国は中国、江戸幕府と巧みに繋がりを持っていたが、上里隆史氏は「ペリーにとっては理解しがたいものだんじゃないか」と話す。欧米の近代国家の概念では支配者、被支配者と白黒はっきりつけるという。琉球王国の滅亡後、中国に援助を求めて王国の再興を図る人、日本について特定の自治を獲得しようとする人たちの間で対立が生じた。首里城では復元工事の真っ最中で、正殿が完成するのは2年後。
「歴史探偵」の次回予告。