- 出演者
- 佐藤二朗 岡崎太希 片山千恵子 河合敦
オープニング映像。
一休は一休宗純とも呼ばれていた。活躍した時期は金閣など北山文化が花開いた時代から、応仁の乱のころまで。
- キーワード
- 一休宗純
京都・酬恩庵一休寺には生前に作られた一休宗純の木像がある。一休自身の髪の毛をそって木像の頭にひげや眉毛が植えられた。毛髪やひげは仏教では煩悩の象徴とされている。煩悩があることを否定しないという意味がある。脳内メーカーで一休の脳内を覗く。使ったのは一休が残した漢詩をまとめた狂雲集。一休は非常に酒を好み、恋人が何人かいたことがうかがえる。
専門家の協力のもと作られた一休の脳内メーカーで、中央に禅の文字が。漢詩に出てきた言葉で一番多かった。災害などが起きると当時の禅僧たちは祈祷して鎮めようとしたが、一休は何の助けにもならないと厳しく批判している。脳内メーカーで注目されるのは「逆」という文字。
- キーワード
- 一休宗純
一休の脳内メーカーで見られた逆という文字は、逆転的な言動を指す。普通とは違う視点を持っている人間だった。お経は表面的なものでトイレットペーパーにしてしまえという表現をしている。権威や常識を鵜呑みにせず、間違っていると思えば真っ向から異を唱えた。一休の死後200年を経た江戸時代、とんち話の一休さんへと結びついていく。江戸時代初期に出版された「一休ばなし」には、この橋渡るべらからずの話が書かれている。武士や寺社などが権威を持っていた江戸時代に知恵一つで偉い人たちの鼻を明かした一休が人気を集めた。一休の物語は歌舞伎や講談などにも広がり、とんちの一休さんのイメージが定着していった。
一休のとんち話には一休が生まれていない時代の逸話が盛り込まれている。権威ある人の嘘を知恵であばく転換が一休のとんちにそっくりだと結びついたと考えられる。また、一休がお正月に骸骨を持って歩く絵がある。新年を迎えるとみんな1歳年をとるが、これは死が一歩近づいていることであり、今をどう生きるのか考えなさいというメッセージを一休さんに託したのではないかという。
京都・酬恩庵一休寺に一休のお墓がある。一休は後小松天皇の皇子だった。一休の母は後小松天皇の寵愛を受けながらも周囲の中傷によって宮廷を追われた。幼い息子を権力争いから遠ざけるために一休を出家させた。足利義満の時代に中心を担ったのが禅だった。一休は幕府公認の権威ある禅寺に預けられる。禅寺での修業を始めた一休は煩悩から逃れることができなかった。それは母への思いと性への葛藤だった。10代後半になると、悟りを求めて各地を彷徨った。そして27歳のとき、カラスの鳴く声を聞いて悟りを開いたという。師匠からまだ80%程度だから駄目だと言われたが、羅漢の禅で結構ですと答えた。悟りきれない自分を否定せず、煩悩を抱えたまま生きる姿を受け入れることだった。
6世紀、日本に伝わった仏教は天皇や貴族が国家の安泰を祈るためのものだった。鎌倉時代になると新しい宗派が次々と生まれ、禅は武士たちの心を掴んでいく。室町時代には仏教の信仰は庶民にも広がっていく。その中で象徴的な場所だったのが大阪・堺。明との貿易で繁栄し、商人たちが町の自治を担い、大きな力を持つようになった。それまで社会の中心でなかった商人などが布教対象として大きく出てくるようになる。一方で堺では、修業の末に師から与えられる悟りの証「印可状」がお布施の見返りとして人々に配られていた。禅の誤った道に進んでいくことが我慢ならない一休は、太刀を携えて人々に禅の教えを説いてまわった。太刀の中身は木刀で、権威を振りかざす禅僧たちを指していた。人を生かすことも殺すこともできない役立たずだと痛烈に批判した。
悟りの証「印可状」で布教していたのは一休の兄弟子たちだった。従来の禅ではお寺に籠もって厳しい修業をしなければ悟りに至れないが、そこまでしなくても悟りを開ける道があると民衆に門戸を開いた。禅を民衆に広めていく意味では一休と兄弟子たちの行動には共通点があった。
応仁の乱で都では飢饉や疫病がまん延していた。こうした中、一休のもとへ、焼け落ちた大徳寺の住職になり再興せよとの命令が天皇から申し渡された。当時の京都は焼け野原で木材の調達にも苦労した。応仁の乱では寺の要である仏殿と法堂が消失していた。再建を急ぐ一休は、この2つの建物を1つにしたお堂を建て直そうとした。資金は寄付で集めようと呼びかけたところ、すぐに反応したのが堺の商人。一休の人間性に共鳴し寄付に賛同した。1479年、大徳寺法堂が再建された。
一休が人生の終着点に選んだのは大覚寺ではなく酬恩庵一休寺だった。一休は78歳のときにこの寺に入り、森女という女性と一緒に亡くなるまで住んだ。悟りを求めながら煩悩と共に生き続けた。
一休が再興した大徳寺は日本の文化に大きな役割を果たす。千利休は、大徳寺の禅僧と深く関わり禅の精神を取り入れて茶の湯を大成した。一休が守り抜いた禅の場は戦国時代には芸術を育む場になっていく。一休は人生の最後に「半文銭に値せず」という謎めいた言葉を残している。自分の人生は一銭の価値もなかったと解釈できる。河合敦は「この言葉こそとんちかもしれない」などと語った。
「歴史探偵」の次回予告。
