- 出演者
- 小倉桂子
去年、日本原水爆被害者団体協議会がノーベル平和賞を受賞。その会場に招待された被爆者の小倉桂子さん。関連行事にも出席し核廃絶を訴えた。もともとは専業主婦だった小倉さん。「学者や政治家ではなく普通の市民が何かをやるというのが大事」との思いから。番組では小倉さんの5年間に密着。
オープニング映像。
被爆者の小倉桂子さんに密着。コロナ禍の2021年ごろはオンラインで活動。パソコンや携帯電話を使いこなし、動画制作にも挑戦。被爆したのは8歳の時。当時の広島には35万人~40万人が住んでいたが、45年8月6日の原爆で約14万人が死亡。小倉さんが当時いたのは爆心地から2.4kmの自宅前。放射性物質を含んだ「黒い雨」を浴びた。自宅周辺に火傷をした人が次々に逃げてきたという。26歳のとき、アメリカ生まれの馨さんと結婚し専業主婦に。1978年、国連本部で原爆の写真展を開催。
- キーワード
- アメリカニューヨーク(アメリカ)上西功一上西寛之助国立公文書館国際連合小倉馨山口達典市川月穂平和のためのヒロシマ通訳者グループ広島平和記念資料館牛田(広島)神社の石段に押し寄せる人々とそれを治療する兵士米国戦略爆撃調査団自宅の前で黒い雨に遭う自分
被爆者の小倉桂子さんに密着。42歳の時、夫が病気で亡くなった。悲しみに暮れるなか、「私がつながなくては」と原爆の惨状を海外へ伝える活動を始めた。英語は独学で習得。広島の実相を海外に伝えるボランティア通訳者集団「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」としても活動。83年、ドイツで行われた反核模擬法廷で自身の被爆体験を初めて証言。核廃絶を共に訴えてきた被爆者が次々に亡くなるなか、「来年の8月6日、私は元気でいられるかな?」と思うように。
被爆者の小倉桂子さんに密着。この日は母校の小学校を訪れ、同級生の久保田さんと再会。新聞で小倉さんの記事を読み連絡したという。当時は紙芝居など子供たちの目に触れるものも軍国主義に染まっていて、学校の教科書も戦意高揚的な内容だった。戦後、それが一転。信じていたものが一瞬で変わるという感覚を覚え、小倉さんは「教育とマスコミがしっかりしていないと真実は伝わらない」と思うようになった。
被爆者の小倉桂子さんに密着。2022年9月、息子のサポートを受け海外で証言活動。やってきたのは米アイダホ大学。保守層が多い地域で、被爆者が訪れることは大きなニュースになった。地元・広島の高校生らが1年がかりで作った紙芝居を使い、当時の惨状を英語で講義。「この経験をこの地域の小中学生に伝えたい」と訴えた。
アイダホ大学で日本語を学ぶマイカリスさん。専攻は音楽で、日本の大学院への進学を目指している。この日、被爆者・小倉桂子さんの被爆証言会へ。街の人も多く訪れたが、原爆被害を知らない人がほとんど。小倉さんは「核戦争を次世代に残したくない」「私達に何が出来るか一緒に考えていきましょう」など訴えた。マイカリスさんは帰宅後、ルームメイトに広島・長崎の惨状を伝えた。自身で広島について調べ、平和を願う千羽鶴を仲間といっしょに広めた。
古くから広島大学とつながりがある米アイダホ大学。1945年の原爆投下で壊滅的被害を受けた広島大学。当時の学長・森戸辰男は再建のため世界の大学へ手紙を送り、協力を募った。アイダホ大学は米国から寄付した数少ない大学の1つ。23年3月、アイダホ大学の一行が広島大学を訪問。当時の支援で植えられた大樹など見て回った。両大学は学術交流協定を締結。
23年5月、被爆地・広島でG7サミットが開かれた。核保有国を含む各国の首脳らが平和公園を訪れ、原爆資料館を見学。その模様は非公開で行われたが、小倉さんは被爆者として参加。集まったメディアに対しても、「あなたたちはリーダーの背中を押して核なき世界を達成できる」など訴えた。特にウクライナ人記者をたずね、思いを伝えた。
被爆者・小倉桂子さんに密着。この日はマツダスタジアムで野球観戦。カープと戦後の復興を共に歩み、その勝利に元気をもらってきたという。
被爆者・小倉桂子さんが米アイダホ大学で講演してから11ヶ月後、その講演を聞いた学生らが広島にやってきた。目的は、小倉さんの被爆体験を題材に作られた日本語紙芝居の英訳版を披露すること。初日は平和公園を訪れ、原爆で同世代の若者が大勢亡くなったことを初めて知った。広島大学の学生とも交流し、原爆投下の正当性について議論。紙芝居は外国人観光客が集まる場所などで披露。
被爆者・小倉桂子さんに密着。講演などで休みがなく、大きなニュースのたびに意見を問われる。「一市民なのに 『被爆者』という肩書に違和感」と話す。小倉さんの教えを受けた米アイダホ大学の学生たちは、卒業を前に地元の高校を訪れ被爆体験を伝えた。卒業にあたり、小倉さんにも名誉学位が授与された。小倉さんの被爆体験を描いた紙芝居も英訳され、世界各地へ広まった。