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全国制覇15回のの名門、九州文化学園高校は2023年が最後の春高バレーだった。2学年の17人は長崎県立西彼杵高等学校に転校した。
オープニング映像。
九州文化学園から17人が長崎・西海市にある長崎県立西彼杵高校に転校し、5年ぶりに女子バレー部が復活した。3年生8人のうちスタメンは市川主将、ドロスト選手、田中選手の3人。九州文化学園を名門に育てた井上監督は大学卒業後に九文の教員となり、3年でバレー部を全国に導いた。全員でつなぐ真実のバレーで、九文として全国大会に100回出場した。井上監督は65歳で九文を定年退職し、西彼杵高校女子バレー部の外部指導者になることが発表された。
西彼杵高校への転校を希望した17人は転入試験に合格した。部活動環境の変化が理由の私立高校から公立高校への一斉転校は異例だったが、西海市などが働きかけ県教委はやむをえない事由にあたると特例で認めた。使われていなかった民宿が寮となり、部員たちは50キロ離れた元の学校から引っ越してきた。井上監督は春高バレーの会場で西彼杵の校歌を歌うことを提案した。1年生も加えて西彼杵バレー部は22人でスタート。全校生徒の5分の1がバレー部となった。2023年4月に長崎地区春季戦に臨み、決勝では2-1で純心女子に勝利した。
6月に始まった長崎県高校総体では西彼杵の選手は大会の補助員をしていた。転校生は高体連主催の大会に半年間出場できない規定があった。関東の強豪、日本ウェルネス高等学校茨城の選手たちが練習試合に西彼杵高校を訪れた。彼女たちもかつて指導者と選手全員で前の学校から転校し、半年間試合ができない経験をしていた。横田選手は春高という先の目標があったからモチベーションを保てたと話した。
西彼杵高校の前でクリーニング店を営む房子さんと夫の康司さんはバレー部のファン。バレー部が来て街に活気が出たことを喜び、道で朝練に向かう部員たちに声をかけていた。朝練では「五列アップ」と呼ぶ独自の体幹トレーニングに取り組んでいた。寮で昼食のときは食事当番を決めて自分たちで作る。共同生活を送る中で姉妹のような絆を作っていた。練習中には近くに住む人たちがお米などの差し入れを届けていた。
西海市は人口減少が止まらず、転校で引っ越してきた高校生は若さと明るい話題を届けてくれる存在だった。西海市はバレー部のために2023年度、新しい寮の整備費用を含む1億円余を支出。9月には地鎮祭が行われた。人口約4600人の大島にある県立大崎高校野球部は、西彼杵バレー部の前に若者を呼び込んだ西海市の先行事例。かつては閉校の危機に瀕していたが、西海市は指導経験豊富な清水監督を招き3年で甲子園に出場した。部活動による地域おこしには専門家も注目している。金沢星稜大学の西村教授はいっときのブームで終わってはいけない、バレー部がきっかけとなって企業や行政が応援しながら若い人を受け入れる体制を作ると地域作りに展開していけると指摘した。バレー部の試合には地域の人たちが応援に来る姿も見られるようになってきた。
高体連主催の公式戦に出られなかった半年が過ぎ、春高の長崎県大会で西彼杵はベスト4に進出した。田中選手は足を痛め、決勝は大黒柱不在で臨むことになった。決勝では純心女子に3-2で敗れ、西彼杵の春高バレーは幕を閉じた。
敗退から8日後、部員たちは西海市のイベント会場でブースを出展した。部の活動資金を自分たちで集めようと取り組んでいた。バレー部と地域との絆は着実に深まっていた。井上監督は勝っても負けても始発駅、いままでの高校スポーツで誰も味わうことのできなかった1年なので将来にもつながる良い感謝の体験ができたのではと話した。
2024年3月、西彼杵の3年生は卒業式を迎えた。地元の人たちはお別れの会を開いた。西彼杵で1年を過ごし、彼女たちは街の人気者になっていた。
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市川選手、ドロスト選手、田中選手は明海大学に進学し、先輩たちに西彼杵イズムを広めている。けがからの復帰に時間がかかる田中選手は裏方の仕事に奮闘していた。市川選手とドロスト選手は、入部早々公式戦でも2枚替えと呼ばれる途中交替でコートに立っている。セッターの市川選手は高校までのゆっくり丁寧なトスから速いトスへの対応を進め、ドロスト選手は高校とは違うオポジットに挑戦している。
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転校をきっかけに西彼杵バレー部の歴史が動き出して1年、新しい寮が完成した。地域の人に祝福され、新たな3学年24人が姉妹のような関係を気づいている。
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- 西海市(長崎)長崎県立西彼杵高等学校
エンディング映像。