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東京・世田谷、閑静な住宅街の一角にレンガ造りの演劇の稽古場・仲代劇堂がある。1975年に創設された若手俳優を養成する無名塾。その一団を率いるのは希代の俳優仲代達矢さん(92)。仲代さんはこの夏の始め、災害で傷ついた能登へエールを送るため1ヶ月におよぶロングラン公演に挑んだ。作品はドイツの劇作家ブレヒトが書いた肝っ玉おっ母と子供たち。戦場を渡り歩く行商人親子の物語。平和への思いを込めた反戦劇だ。そのおっ母役を仲代さんが演じる。公演の記者会見が能登半島・七尾市に建つ能登演劇堂で開かれた。日本で唯一自然と一体になっている舞台が魅力。能登演劇堂は仲代さん夫妻が旅行で能登を訪問したのをキッカケに地元の人たちとの長年の交流を経て作られた演劇専用のホールだ。完成以来、無名塾の全国公演は全てこの地からスタートしている。能登限定の今回の公演に仲代さんは特別な思いを込めていた。災害と戦っている能登の人々に寄り添うこと。若手の役者は被災地のボランティアに参加した。まだ危ないからと現地行きを止められた仲代さん。それなら良い芝居で能登を元気にしたいと今回の公演が決まった。92歳の仲代さんは今回の舞台を通して自分自身のこの先のことを考えていた。いつまで現役の役者を続けるのか?この物語の初演は37年前。演出は妻の宮崎恭子さん。当時恭子さんに問いかけられた言葉に答えを出したいという思いがあった。2025年戦後80年、私たちは92歳主演役者として夢を追い続ける仲代達矢さんの日々を見つめた。
公演に向けて稽古場は熱を帯びてきた。稽古は毎日基本の声出しから始まる。新しい塾生を受け入れる入塾審査に立ち会った。仲代さんの直接指導が受けられるとあって、競争倍率は高く劇団の東大と呼ぶ人もある。無名塾のコースは3年間。月謝は無料。ただしアルバイトは禁止。人格の修練からプロの俳優として独り立ちできるまで訓練の日々が続く。壁に張り出された規則。塾を始めた妻恭子さんが50年前に書いた。自分を律する厳しさがなければ役者に明日はないとの教え。休憩を挟んでほぼ3時間の舞台、仲代さんは出ずっぱり。それを20日間。強靭な体力だけでなく気力も求められる。さらに覚えるセリフの量は膨大。一体そのエネルギーはどこから生まれるのか。92歳、老いとの戦いを仲代さんは公開しない。それはおそらく役者としてのプライドあるいはダンディズムなのかもしれない。分かっているのは声出しを含めた訓練が毎日であること、それと晩酌。仲代さんの役者人生の礎になったのが、世界に名を馳せた黒澤明監督との出会い。まだ俳優座養成所に通っていた頃に出演した「七人の侍」以降「用心棒」、「椿三十郎」と黒澤映画の顔になっていく。映画界で活躍する一方で、舞台演劇を重視していた仲代さん。特定の映画会社に属さず、フリーの役者を貫いた。仲代さんは国内外の舞台・映画のあらゆる賞を総なめにしている。こんなエピソードがある。天皇陛下から勲章を親授される文化の日。舞台公演と重なった仲代さんは、「自分を待ってくれている観客が優先」と話し親授式を欠席した。役者を貫く仲代さんらしい決断だった。
公演を控えて、稽古場では通し稽古が熱を帯びていた。仲代達矢さんに生い立ちとルーツを訪ねた。仲代さんは1932年生まれで、母である愛子さんが薬屋を営んでおり、父である忠雄さんは運転手をしていたという。仲代さんはこれまで役者を続けられたのは父と母のおかげだと語った。父の死後、母が一生懸命働き生活をしていたという。仲代さんも千歳高校時代から働きに出ていたという。ある人からの提案で俳優になることを進められ、その後、俳優座に応募したことがスタートだと話した。仲代さんは妻である宮崎恭子さんについて、同じ京王線沿線の電車で出会ったのが馴れ初めであり、帰りの電車で出会ったことで話すようになったという。宮崎恭子さんは役者だけでなく演出なども行っていた。仲代さんは無名塾を始め、宮崎さんと一緒に若手の役者に稽古をしていたという。また、稽古後に仲代さんは宮崎さんに、「気持ちよくやってね、最後は。」と言われ、緊張感が緩和されたという。そして、「いい役者よ。あなた。」と言われると自分はいい役者だと思えたと話し、それは彼女なりの演出のひとつなのではないかと話した。仲代が公演で地方に回っているときも、宮崎さんは全公演みていたという。宮崎さんの死後、29年が経つが宮崎さんとの思い出は昨日のように思い出すと語った。宮崎さんは、生きている限りはずっと無名塾をやっていこうと思っているが、皆の協力を得てやっていると話した。仲代さん歌った「あなたのその手」は、宮崎さんが作詞をしており、映画界を背負う一人になっていた35歳の仲代さんに贈られた、宮崎さんからのラブソングだった。
公演を3日後に控え、石川県七尾市中島町にある能登演劇堂では、建込みが行われていた。その後、少し遅れて仲代さんが能登に到着。舞台公演では本番を前に舞台装置や音響・照明などの最終チェックが行われていた。舞台では演出を担当する隆巴さんのパネルが設置された。仲代さんには主役としての動きが待っている。本番前の緊張とハードなリハーサルが続く。92歳の仲代さんにとって、休憩を挟みながらの出ずっぱりの舞台であり、20日間のロングラン公演。舞台の袖には酸素吸入器が用意されていた。会場いっぱいに響く声を持っており、余り知られていないが、仲代さんは気管支喘息の持病がある。今回、仲代さんは妻が言った「気持ちよくやってね、最後は。」という言葉を胸に秘めていた。まもなく舞台は初日を迎える。
公演初日を迎え、能登はきれいに晴れていた。演劇には全国各地から仲代さんファンが駆けつけた。公演は、600席全てが予約でほぼ満席だった。舞台の奥に広がる森の中には「肝っ玉おっ母と3人の子供たち」が幕があがるのを待っていた。そして、人力車が動き、ロングラン公演がスタートした。一幕一場、徴兵隊に子供を取られるシーンから悲劇の幕が開く。一幕四場、二幕八場からなる作品であり、92歳の仲代さんの能登へのエールと平和への渇望、この舞台を演出していた亡き妻への思いを胸に20日間の公演を演じきった。千穐楽では、万雷の拍手とカーテンコールが響き渡り、誰もが仲代さんの勇姿を心に焼き付けていた。仲代さんは演出家の妻について、「ステキな演出家でした」と話し、「また、頑張ります」などとコメントした。
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- 肝っ玉おっ母と子供たち能登(石川)
