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オープニング映像。
この日、林田は学生たちとどうしたら核兵器がなくせるのかをディスカッションしていた。林田は知識や歴史で学べることは被爆者に現在は頼りっきりであるが自分たちでも話し伝えていけるはずなどと告げた。広島への原爆投下からわずか3日後に長崎にも原爆が投下された。被爆者の山川は自身の体験を伝えた人々に握手を交わし、これはバトンタッチなのだと伝えている。林田は山川からのバトンタッチについて、学生たちに自分たちが伝え手になるだけではなく、次に伝えていく世代へ渡していくことなどと説明していた。自分に残された時間は短いという被爆者の本村は、精一杯メッセージを伝えることが自分に残された使命なのだと会見で話していた。
5月、林田は長崎市立小江原中学校にて3年生の平和学習にアドバイザーとして呼ばれていた。3年生達は長崎を訪れる海外の人との会話をするきっかけ作りを企画していた。林田は平和という概念が、教育活動が長崎の文化として根付いてほしいなどと告げた。2009年、高校2年生であった林田は高校生平和大使に任命され海外でも平和活動を行っていた。大学時代も林田は関東で平和活動を続け、5年前に故郷の長崎へ戻った。林田は被爆前の日常を被爆者から聞き取り、残してきている。3年前に林田は平和教育や研修授業を行う団体を設立し、爆心地周辺を案内するガイドの育成や自治体からの依頼を受けて学校・企業での講演も実施している。林田は高校3年時に平和活動を続けていくと決意した。林田は当時、アメリカ・ニューヨークで被爆地の高校生として被爆者・吉田勝二の体験談を伝える紙芝居を披露し、林田は吉田の言葉「平和の原点は人の痛みが分かる心を持つこと」を自分の軸として、話し伝えてきた。
81年前のきょう、1945年8月9日、原爆が投下され全焼全壊は1万2900戸に及び、原爆による被害での死者は7万3884人となった。長崎原爆資料館にある原爆資料は訪れた人々にその恐ろしさを伝えている。傷を負いながらも生き残った被爆者たちは世界に叫び伝え続けてきた。被爆者の山川は8歳で被爆し、24歳で小学校の教師となり、長年に渡り子どもたちへの平和教育に尽力してきた。爆心地から約4.3kmの場所に自宅がある山川は、当時家族は無事であったが空一面を真っ赤に染めた炎の恐怖を忘れることはない。山川は原爆を知らない子どもたちに教師こそが伝えなければならないという思いを信条に、定年退職後も被爆講話を続けてきた。90歳を目前にしたこの春、山川は語り部活動を引退した。林田が高校生平和大使に任命された頃に選考委員を務めていたのが山川であった。山川は林田に同じような活動をする仲間を増やすことがこれから大事になってくると告げ、バトンタッチとして握手を交わした。
毎月9日に平和公園で行われている座り込みの活動に山川は50年以上参加している。被爆者の念願である核兵器の廃絶。6月時点で世界の核弾頭数は1万2187発であり、山川は核保有国である9カ国が力によって世の中を動かしているからこそ、それに抗う力を幅広い年代でさざ波であっても起こしていかなければならないなどと伝えた。爆心地から約4.5kmの長崎市小江町で暮らす被爆者の本村は、当時駆けつけてくれたという祖母が覆いかぶさってくれて体に傷を負うことはなかったという。本村の祖母は被爆の翌年に亡くなり、この81年の自分の命は祖母の命と引き換えだったとこれまで背負ってきたのだと明かした。本村はメッセージを伝えることが自分に残された使命なのだと考えている。3月末時点で被爆者の数は9万1105人となっている。
平和学習で林田から対話の大切さを学んだ学生たちは、外国人観光客たちに声をかけ、「あなたにとって大切なものは何ですか?」と質問して回っていた。林田は皆が皆、自分の中に違う言葉を持っていて、誰の言葉が届くかは分からないものであり、だからこそ伝い手や育成者が多ければ多いほどに伝えられる人の数が必然的に増えていき、そうした好循環が広島・長崎を中心に広がってきていると感じていっるなどと語った。本村は自分が味わった戦後を子どもたちに味あわせたくないのだと告げた。
NNNドキュメント’26の番組宣伝。
