80年前、広島と長崎の投下された原爆で広島や長崎にいた外国人捕虜が命を落としたことはあまり知られていない。第二次世界大戦中、日本国内には約130ヵ所の捕虜収容所があった。長崎には「福岡俘虜収容所第14分所」があった。劣悪な環境で過酷な労働を強いられた捕虜たち。病気などで亡くなった人は100人を超えると言われている。またこの収容所は爆心地にも近く、原爆の犠牲になった捕虜もいた。今月戦時中日本軍に囚われた捕虜たちを追悼する式典が長崎で行われた。90人が参加した。生き延びたオランダ人捕虜の遺族の姉エディト・クリグスマン、弟オラフが父ユージン・クリグスマンの足跡を辿った。父は2014年死去。父は当時オランダ領だったインドネシア生まれ。軍人になった。東ジャワで日本軍に捕らえられた。姉、弟は収容所跡を訪れた。式典を主催した追悼維持管理委員会・平野伸人副代表は「皆さんのお父さんは三菱造船所に働きに行った」という。父はトンネル掘りの作業中で助かったという。父は家族に多くを語らなかったが、晩年少しずつ語るようになった。普段公開されていない収容所の模型も見た。弟は「ある日本兵と友情を築いたと父は話した」「原爆が投下された8月9日、敵味方無く助け合った」という。姉弟は乳の遺影と証言を原爆記念館に寄贈した。