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「ハリー・トルーマン」 のテレビ露出情報

台湾の植民地時代の記録映画「南進台湾」が残っており、その映像が流れた。1937年に日中戦争が始まると、日本は同化政策を強化しその様子も映像に残っている。こうした政策に反発した呉濁流は中国に渡ったが、日本のスパイだとみられ嫌われたという。そのため呉濁流は台湾を「アジアの孤児」と表現したという。太平洋戦争に入ると台湾国民も戦地に送られるようになる。1945年に日本は降伏し、台湾は蒋介石を熱狂的に迎えた。しかし横領や失業などによって台湾国民は失望するようになった。また中国本土から来た人を外省人、台湾の人を本省人と区別するようになった。
1947年に本省人の不満が爆発し、二・二八事件が起きた。これを蒋介石の部隊は無差別に市民を虐殺した。さらに毛沢東との争いに敗れて、毛沢東は中華人民共和国を建国した。2ヶ月後に蒋介石は台湾に政府を移転させる。それまで協力していたアメリカは蒋介石を見限ろうとしたが、朝鮮戦争が起きて、アメリカは台湾への支援を継続した。こうした中で日本は米英と講和条約を結んだ。そして蒋介石と毛沢東は争いを続けた。
1950年代に毛沢東の大躍進政策の失敗で大陸で多数の餓死者が出ると、その混乱を台湾の統治に使った。蒋介石は準備を進めて大陸反攻を計画し、それを察知した毛沢東も準備を進めて一触即発の状況になった。そうした中で中国が核実験成功という情報を得て、軍を動かしたが失敗し、蒋介石は表に出なくなった。一方で経済は躍進した。
1971年7月。アメリカと中国が接近したことで国際連合は中華人民共和国を中国唯一の代表と認める決議がされ、台湾は国連から追放ということになった。翌年、日本も中国との関係改善に動き、国交を結んだ。台湾が孤立を深める中で蒋介石が87歳で死去した。1979年に台湾は後ろ盾になっていたアメリカからも断交を告げられた。こうした中で台湾国民は政府に不満をつのらせて、政府は40年近く続けていた戒厳令を解除することになった。さらに大陸出身者への親族訪問も解禁された。
1988年。李登輝が総統に就任した。本省人が総統になるのは初めてのことだった。そこで民主化への大きな動きがあり、総統を直接選挙で選ぶことになった。そして選挙の結果、李登輝が総統に選ばれた。それから台湾の経済規模は3倍になり、2023年にはTSMCのモリス・チャン元会長が国際会議で存在感を示したりしている。台湾が現在国交を持っているのは12か国だが、貿易相手国は190以上になる。外交の孤立を経済の力で克服し国際的な地位を築いている。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年6月6日放送 5:45 - 7:05 テレビ東京
モーサテパックンの眼
パックンはホワイトハウスについて概説した。1800年に完成し、敷地面積は東京ドーム1.5個分。ホワイトハウスはウエストウイング、エグゼクティブレジデンス、イーストウィングから成り、イーストウィングの地下には大統領危機管理センターがある。エグゼクティブレジデンスは大統領一家が住み、セキュリティの都合上、開窓できない。また、幽霊の目撃情報もある。映画館に売店、ト[…続きを読む]

2025年5月22日放送 23:50 - 0:35 NHK総合
映像の世紀バタフライエフェクト(映像の世紀 バタフライエフェクト)
1945年8月。ソ連軍の朝鮮北部進軍により、35年に及ぶ日本の朝鮮支配は終わりを迎えた。それから1ヶ月後、朝鮮南部にはアメリカ軍が進軍。両者は38度線を境界とし、朝鮮半島を分割統治することになった。この分割統治案は8月14日に2人の米軍将校が30分で起草したもので、統治の開始直後は国境の警備も緩く、現地の兵士たちも互いに友好的なムードで接していたという。それ[…続きを読む]

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