1944年11月、太平洋戦争末期に空襲が本格化。火の雨と呼ばれた焼夷弾が日本を襲った。86歳の河合節子さんは5歳のときに空襲で母と弟2人を亡くした。家族で生き残ったのは疎開していた河合さんと大やけどを負った父のい2人だけだった。母と弟たちは見つかっていない。多くの犠牲者が出た空襲後には遺体を一時的にまとめて土葬する仮埋葬が行われた。戦争被害をめぐっては軍人やその遺族には国から約60兆円の補償がされたが、民間空襲被害者への補償はない。その壁の一つとなっているのが、受忍論という考え。民間人への補償に関する法案は1970年代から14回国会に提出されたが、すべて廃案になっている。去年、民間空襲被害者への救済法成立を目指す超党派議連の会長に就任したのが自民党の平沢勝栄衆院議員。6月には空襲被害の実態調査・追悼施設の設置、空襲で障害を負った人に50万円の支給などの救済法案をまとめた。しかし、自民党の一部から反対をうけ法案提出には至らなかった。戦後80年がたち時間の猶予はない。法案提出のカギは石破総理。