オーストラリアは経済、文化面の密接な関係に加えて、最近は中国を念頭にした安保面での協力強化、緊密化というのも進んでいる。ただ、オーストラリアと日本は第2次世界大戦では敵対関係にあった。オーストラリア、イギリス連邦の加盟国で旧日本軍と戦っていた。中には戦闘に敗れて捕虜になり、日本の収容所に送られた人たちもいた。あるオーストラリア人捕虜の遺族の思いを取材。
オーストラリア西部の都市パース。郊外に住む元小学校教員のハリータイソーさん。祖父が旧日本軍の捕虜になった。1942年、父方の祖父は、タイソーさんの祖母と4人の子どもを残して、イギリスの植民地だったシンガポールに出征した。しかしその直後、旧日本軍がシンガポールを占領。イギリスやオーストラリアなど約13万人の兵士が降伏し、その多くが捕虜になった。タイソーさんの祖父は日本へ移送された。船はすし詰め状態で甲板に上がることすら許されず、船内で命を落とす人もいた。祖父は神戸に送られたが収容所で体調を崩して亡くなり、オーストラリアに帰ってくることはできなかった。タイソーさんのもとには遺骨の代わりに帰ってきた僅かな遺品しかない。戦後、祖父のこと、そして悲惨な戦争についてほとんど話さなかったタイソーさんの家族。一方で、タイソーさん自身は祖父の人生を知りたいと資料を集め、調べるようになった。
今月タイソーさんは、祖父が送られた収容所があった神戸を、初めて訪れた。日本政府が捕虜だった人やその家族に日本に来てもらい、和解につなげようと招待した。かつて500人以上の捕虜がいた収容所の敷地には、郵便局が建っていた。タイソーさんの祖父など捕虜になった人たちは、十分な食事も与えられず毎日長時間、荷物の積み降ろしなどを強いられた。続いて足を運んだのは、病院の跡地。今は小さな公園だが、病気になった捕虜が運ばれたとされる場所。胸に祖父の勲章をつけたタイソーさんがやって来たのは、イギリス連邦の墓地。二度と悲惨な歴史を繰り返させない。タイソーさんは決意した。タイソーさんは母方の祖父も捕虜で日本の収容所に送られている。戦後オーストラリアに戻って来ることは出来たが、夜寝ていてもうなされることがあったという。
オーストラリア西部の都市パース。郊外に住む元小学校教員のハリータイソーさん。祖父が旧日本軍の捕虜になった。1942年、父方の祖父は、タイソーさんの祖母と4人の子どもを残して、イギリスの植民地だったシンガポールに出征した。しかしその直後、旧日本軍がシンガポールを占領。イギリスやオーストラリアなど約13万人の兵士が降伏し、その多くが捕虜になった。タイソーさんの祖父は日本へ移送された。船はすし詰め状態で甲板に上がることすら許されず、船内で命を落とす人もいた。祖父は神戸に送られたが収容所で体調を崩して亡くなり、オーストラリアに帰ってくることはできなかった。タイソーさんのもとには遺骨の代わりに帰ってきた僅かな遺品しかない。戦後、祖父のこと、そして悲惨な戦争についてほとんど話さなかったタイソーさんの家族。一方で、タイソーさん自身は祖父の人生を知りたいと資料を集め、調べるようになった。
今月タイソーさんは、祖父が送られた収容所があった神戸を、初めて訪れた。日本政府が捕虜だった人やその家族に日本に来てもらい、和解につなげようと招待した。かつて500人以上の捕虜がいた収容所の敷地には、郵便局が建っていた。タイソーさんの祖父など捕虜になった人たちは、十分な食事も与えられず毎日長時間、荷物の積み降ろしなどを強いられた。続いて足を運んだのは、病院の跡地。今は小さな公園だが、病気になった捕虜が運ばれたとされる場所。胸に祖父の勲章をつけたタイソーさんがやって来たのは、イギリス連邦の墓地。二度と悲惨な歴史を繰り返させない。タイソーさんは決意した。タイソーさんは母方の祖父も捕虜で日本の収容所に送られている。戦後オーストラリアに戻って来ることは出来たが、夜寝ていてもうなされることがあったという。