- 出演者
- 南利幸 井上二郎 赤木野々花
NHKの前身の1つ「東京放送局」は、100年前の1925年3月1日から東京・芝浦の東京高等工芸学校の仮のスタジオで試験放送を開始。その後、国の検査を経て、3月22日に初めてのラジオ放送が始まった。第一声は放送局のコールサインを伝えるものだった。当時、契約者数はおよそ3500人、聴取料は1か月1円で、多くは鉱石ラジオで聞いたとされていて、NHKは後に、放送が始まった3月22日を「放送記念日」と定めている。そして、同じ年の7月12日、東京放送局は東京の愛宕山に局舎を完成させ、1日およそ8時間の本放送が始まる。その後、ラジオ劇や子ども番組、英語講座などが始まって、ラジオは一般家庭に広がっていった。
慶応大学などのグループは脊髄を損傷した患者にiPS細胞から作った神経のもとになる細胞を移植する臨床研究を行った結果、4人のうち2人に運動機能の改善が見られたと発表した。iPS細胞を使った脊髄損傷の治療で症状の改善が見られた世界初のケースだとしている。脊髄損傷は国内で毎年5000人以上が新たに患者になるとされていてグループは今後、国の承認を目指した治験を行うとしている。
女性警察官の制服が見直され、スカートの廃止が決定。女性警察官の業務範囲の拡大によって「現場で動きにくい」として着用されなくなっているという。
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大人気のジャイアントパンダたち。和歌山県白浜町のテーマパークでは、国内で最も多い4頭のパンダを見ることができる。パンダたちの父親が永明。32歳で死んだ。人間に例えると100歳に近い年齢の長寿パンダだった。大勢のファンが永明との別れを惜しんでいる。永明は、白浜でパンダの大家族を作り、“パンダに会える町”にした特別な存在。中国生まれの永明、31年前に白浜にやって来た。中国との間で始まった繁殖研究がきっかけだった。2001年、初めての子どもとなる雄浜が誕生した。その後、ほぼ2年間隔で繁殖を成功させ、赤ちゃんパンダの誕生は大きな注目を集めた。そして5年前に生まれたのが16頭目の子ども、雌の楓浜。雄のジャイアントパンダの繁殖年齢が20歳までといわれる中、このとき永明は28歳。飼育下で自然交配し繁殖した、世界最高齢の記録となった。永明と2頭の雌との間に生まれた子どもは16頭。白浜生まれのパンダたちは、地名にちなんで「浜家」と呼ばれている。旭山動物園元園長・小菅正夫さんは、白浜でパンダの繁殖が成功した背景には、永明の存在と高い飼育技術があるという。永明から広がった白浜のパンダファミリーの大ファンだという、松田和之さん。ファンになって16年。東京から毎月のように白浜に通い、中国に返還される日まで永明を見続けてきた。永明が白浜に来てから30年余り。白浜は、パンダに会える関西有数の温泉地としてにぎわってきた。旅館やホテルで作る団体の理事長は、永明が残した遺産を生かしながら町を盛り上げていきたいと考えている。国内で今、パンダが見られるのは、東京の上野動物園と白浜だけ。
バルト3国とポーランドが、対人地雷の使用などを禁止した国際条約から脱退する方針を明らかにした。背景にあるのはロシアによるウクライナの侵攻。この条約は日本をはじめ160以上の国と地域が加盟し、条約の実現に大きく貢献したNGOがノーベル平和賞も受賞した。
オーストラリアは経済、文化面の密接な関係に加えて、最近は中国を念頭にした安保面での協力強化、緊密化というのも進んでいる。ただ、オーストラリアと日本は第2次世界大戦では敵対関係にあった。オーストラリア、イギリス連邦の加盟国で旧日本軍と戦っていた。中には戦闘に敗れて捕虜になり、日本の収容所に送られた人たちもいた。あるオーストラリア人捕虜の遺族の思いを取材。
オーストラリア西部の都市パース。郊外に住む元小学校教員のハリータイソーさん。祖父が旧日本軍の捕虜になった。1942年、父方の祖父は、タイソーさんの祖母と4人の子どもを残して、イギリスの植民地だったシンガポールに出征した。しかしその直後、旧日本軍がシンガポールを占領。イギリスやオーストラリアなど約13万人の兵士が降伏し、その多くが捕虜になった。タイソーさんの祖父は日本へ移送された。船はすし詰め状態で甲板に上がることすら許されず、船内で命を落とす人もいた。祖父は神戸に送られたが収容所で体調を崩して亡くなり、オーストラリアに帰ってくることはできなかった。タイソーさんのもとには遺骨の代わりに帰ってきた僅かな遺品しかない。戦後、祖父のこと、そして悲惨な戦争についてほとんど話さなかったタイソーさんの家族。一方で、タイソーさん自身は祖父の人生を知りたいと資料を集め、調べるようになった。
今月タイソーさんは、祖父が送られた収容所があった神戸を、初めて訪れた。日本政府が捕虜だった人やその家族に日本に来てもらい、和解につなげようと招待した。かつて500人以上の捕虜がいた収容所の敷地には、郵便局が建っていた。タイソーさんの祖父など捕虜になった人たちは、十分な食事も与えられず毎日長時間、荷物の積み降ろしなどを強いられた。続いて足を運んだのは、病院の跡地。今は小さな公園だが、病気になった捕虜が運ばれたとされる場所。胸に祖父の勲章をつけたタイソーさんがやって来たのは、イギリス連邦の墓地。二度と悲惨な歴史を繰り返させない。タイソーさんは決意した。タイソーさんは母方の祖父も捕虜で日本の収容所に送られている。戦後オーストラリアに戻って来ることは出来たが、夜寝ていてもうなされることがあったという。
住所変更に関するお知らせを行った。
経済情報を伝えた。
全国の気象情報を伝えた。
道路情報を伝えた。
関東甲信越の気象情報を伝えた。