- 出演者
- 桑子真帆
オープニング映像。
明治人に会いたいと全国47都道府県を取材したところ、5人いることがわかった。そのうち沖縄の喜友名靜子さんはおととい113歳で亡くなった。
取材当時、沖縄唯一の明治人だった喜友名靜子さん。沖縄戦の時32歳だった喜友名さんは4人の子どもを守り抜いた。戦後はアメリカの占領下で商店を営んだ。苦しい時期を生き抜いた喜友名さんの存在が家族の支えとなってきた。
明治44年生まれ114歳の賀川滋子さんは現在、自宅で娘夫婦と暮らしている。健康の秘けつは毎日新聞を読むこと。そして週3日の足腰のリハビリ。今年自宅で転倒して骨折したが、自力で立つ努力を続けている。賀川さんが医師になったのは22歳の時。まだ女性の医師は珍しかった時代だった。賀川さんが医師を目指した1920年代、欧米で活発化した女性解放の議論が日本でも広がった。そうした中で教師や看護師、事務員といった仕事を中心に職業婦人が増加。1928年には西日本で初となる女子医学専門学校が大阪に開校。2期生として入学した賀川さんは勉強に明け暮れた。しかし、当時は女性が医師を目指すことに逆風も強く吹いていた。賀川さんが通った学校の設立文書には、女性医師は男性医師の妻としての役割を期待されていた。そんな時代の中、賀川さんは患者に向き合い続けた。
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- 大和郡山(奈良)
今回、賀川滋子さんへの取材の中で戦前からの洋服姿を写したスナップ写真が見つかった。天野隆子は経済的にも余裕があったからできた、時代の先端を行く意気込みが感じられるなどと話した。が滋子さんは食生活の変化も経験した。
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- 賀川滋子
昭和6年、当時20歳の医学生だった滋子さんはカレーライスに出会った。当時カレーと言えばイギリスC&Bのカレー粉。ある業者はC&Bの空き缶に国産のカレー粉を詰めて売った。国産でも十分行けるとまさかの高評価。こうして国産カレーは広まり庶民の食卓にも並ぶようになったという。
新しい時代はいきなりは来ない、まだらにやった来ると磯田道史は話した。
1910年代後半、日本は空前の好景気に沸いていた。第一次世界大戦によって鉄鋼業や造船業を中心に特需が発生した。ライト兄弟の初飛行から10年余、日本の各地でも飛行機が飛び始めた。賀川さんが8歳のころ、奈良の練兵場にも陸軍の飛行機が来た記録が残っている。陸軍の航空隊が発展していくその瞬間を目撃していた。1930年代に入ると飛行機は戦意高揚のシンボルへと変わっていった。市民がお金を出し合い陸軍に寄付した献納機は陸軍だけで7000機に上るとされる。1941年、日本軍の戦闘機がハワイを攻撃、太平洋戦争が始まった。大和郡山の医者は軍医でとられて、医者は男の年を取った人と賀川さんの2人しかいなかった。戦争末期、賀川さんの自宅近くにも戦闘機が飛んできた。アメリカの戦闘機による機銃掃射で、各地で多くの一般市民が犠牲になった。賀川さんの住む大和郡山市内でも小学生2人が亡くなった。
賀川滋子さんの話は「花子とアン」のシーンとオーバーラップすると天野隆子は言った。
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- 賀川滋子連続テレビ小説 花子とアン
賀川さんは命の誕生に立ち会い続けてきた。賀川さんは「ここまで生きてるからもうちょっと生きてから死にたい」と話した。