高木ヤス子さんは、小田原にあった山本旅館の三女で子どもの頃から箱根駅伝に親しんできた。高木ヤス子さんは「むずむずしちゃう 駅伝って聞くと」と語る。当日はご近所さんをトラックに載せ、家族はオープンカーに乗り込み、間近で声援を送った。山本旅館は中央大学の定宿で、お世話する学生の中に、高木四郎さんがいた。しかし太平洋戦争が勃発し未来ある若者たちは、戦地に散った。四郎さんも南方へ出征した。高木ヤス子さんは「小田原の駅の鉄橋のすぐ側に山本旅館様と書いた手紙が落ちていたんです」などと振り返った。昭和20年、終戦。しかし四郎さんの消息はわからないまま。その間、ヤス子さんにはいくつもの縁談が舞い込んだ。四郎さんは生きていたこと知らせてくれたのも箱根駅伝だった。箱根駅伝が仲を取り持ち二人は結婚。その後四郎さんは母校・中央大学の総監督に就任。