岩手・山田町では東日本大震災当時、津波のあとには火災が発生し、一面焼け野原となっていた。震災から2ヶ月後、母の日を前に花屋が店を再開し、山根は花を購入して、行方不明となっている娘のために家があった地へバラを捧げた。家のすべてが津波に流され山根は保育所からもらったアルバムを常に持ち歩いていた。それから間もなく15年、今年1月に山根はあの日、娘と一緒にいたら助けられたかも知れないと後悔し続けていた。山根は娘の誕生日には毎年ケーキを用意して祝い続けていた。山根家は震災後9年間、プレハブの仮設住宅で暮らし、6年前に念願の自宅を町内に再建した。山根は娘の靴を紹介し、2010年9月12日にこの靴を履いて運動会に参加していたなどと振り返った。山根家の大黒柱である朋紀は仕事に精を出すことで悲しみに蓋をしてきた。山根たちは震災後に来る日も来る日も遺体安置所を回っては娘を探し続け、DNAも警察に提出したが見つからず、翌年に死亡届を提出した。山根は娘の墓には遺骨の代わりに昼寝用のパジャマを入れているのだと明かした。
2011年3月11日、宮城・多賀城市にいたミヤギテレビのカメラマンである鎌田は東日本大震災のあとに取材に向かう道中で津波に巻き込まれ、車を乗り捨て津波から逃れるためにマンションに上層に駆け上がり、津波の様子を報道人として撮影し続けていた。鎌田はその日の夜には猛吹雪の寒さの中、避難したマンションの一室で避難者たちや住人と震えながら過ごしていた。今年1月、鎌田は今もあの日夜に飲んだホットコーヒーの味は忘れられないのだと避難した部屋の主であった郡山と話していた。
2011年3月11日、宮城・多賀城市にいたミヤギテレビのカメラマンである鎌田は東日本大震災のあとに取材に向かう道中で津波に巻き込まれ、車を乗り捨て津波から逃れるためにマンションに上層に駆け上がり、津波の様子を報道人として撮影し続けていた。鎌田はその日の夜には猛吹雪の寒さの中、避難したマンションの一室で避難者たちや住人と震えながら過ごしていた。今年1月、鎌田は今もあの日夜に飲んだホットコーヒーの味は忘れられないのだと避難した部屋の主であった郡山と話していた。
