昭和39年、日本は新幹線の誕生に沸いた。東京から大阪を4時間で繋ぎ高度経済成長を支え大都市に豊かさと繁栄をもたらした。一方で北陸は取り残されていた。金沢から上野は特急でも8時間かかった。昭和35年12月、上野駅発急行「北陸」。乗客はふるさとで過ごす正月を楽しみにしていた。しかし大雪のため100時間かかって富山にたどり着いた。1万5000人が家族と新年を迎えることができなかった。「北陸にも新幹線を」これが人々の願いだった。昭和48年、田中角栄が日本列島改造論をぶち上げた。全国各地を新幹線で結ぶ構想が一気に動き出し山陽新幹線、上越新幹線、東北新幹線などが次々に開通した。高崎から北陸に向かうルートも浮上したが北アルプスの山々、切り立つ日本海の絶壁、そして豪雪。さらにルートは企業や人口が少なく赤字路線になると言われた。国は計画を凍結した。それでも北陸新幹線の実現を諦めてないものたちがいた。それが日本鉄道建設公団の技術者たちだった。鉄道公団は着工の許可を取り付けて見せると調査を続けていた。これまでに3本のルートが検討されてきた。まず検討されたのが長野からまっすぐ富山に向かうアルプスルートだったが工事は不可能だと判断された。次に検討されたのが白馬ルート。白馬ルートは地下水が抱負で大量の湧水が吹き出してくる可能性があり、無理だと判断された。その結果、最後に残されたのが東の端をぐるっと迂回するルートだった。しかしここにも大きな難関があった。長野から新潟に抜けるための全長22kmの飯山トンネル。だがここしかない。任されたのは岡崎準だった。ここらはあたらしく生まれた大地なので地盤が柔らかく脆かった。さらに近く変動で両側から潰され地層が波をうった。全長9kmの鍋立山トンネルは工事開始から20年経っても完成していなかった。飯山トンネルの長さはその倍以上あった。ボーリング調査は64本、試験的なトンネルは9本。規格外の調査で攻略の方法を探った。1991年、長野オリンピックの開催が決定し新幹線は長野までの延長が決まった。飯山ルートはまたも見送られてしまった。そんな中、次々とアイデアを出してくる若者がいた。それが依田淳一だった。依田っちは徹底的にシミュレーションし、採算を取るために駅の場所やルートを検討。経済効果は2.7兆円、建設費用を差し引いても十分な経済的価値が見込める予算案を作り上げた。さらに飯山トンネルの攻略法も見出した。トンネルを6つの工区に分割し同時に掘り進め工事期間を短縮する。1996年、北陸新幹線の建設計画を国に提出。その年の暮れ、北陸新幹線のプロジェクトが決まった。
