上高地に何故日本初の山岳リゾートホテルが誕生したのか?現在では年間120万人の観光客が訪れる上高地だが、かつては猟師や林業の者しか立ち入らない秘境中の秘境だった。その山岳美が一般に知れ渡ったのは明治29年。槍ヶ岳や穂高連峰ななどを踏破した英国人宣教師のウォルター・ウェストンが書いた一冊の本にある。上高地を紹介し登山の楽しみを広めたウエストンは日本近代登山の父と呼ばれ、その功績をたたえて年に一度は祭典が開催される。昭和2年には、上高地が日本八景の渓谷部門に選ばれ知名度は全国区に。その5年後に当時長野県知事だった石垣倉治は上高地一体が国立公園2指定されるのを見据えてホテル建設を計画。たまたま長野に旅行中だった帝国ホテル会長の大倉喜七郎にその計画をもちかけた。設計を任されたのは高橋貞太郎。後に川奈ホテルや帝国ホテル本館などを手掛けるホテル建築のスペシャリスト。まず始めたのは世界の山を知ると登山家や著名人を集め意見を聞いた。これによりホテルの外観は、スイスの山小屋をイメージした形になり、登山者のニーズに答える乾燥室や食堂、ロッカー室などが計画された。最も注意を払ったのはホテルからの眺望に対し配慮がなされた。この立地こそが肝だった。
建物の角度を周囲の山並みとあわせて最高の眺望を目指した。しかし昭和8年から始まった工事は困難の連続で、時代は2年前に勃発した満州事変に端を発し、戦線が拡大。国家は後戻りできない戦争へと踏み込んでいった。これにより、政府の資金融資が2ヶ月も遅れ後期は大幅に削減。突貫工事を余儀なくされるが上高地の道は整備されておらず、建築資材の運搬すらままならない状態に。そこで池が突破口に。上高地帝国ホテルから45分ほど歩いた場所には大正池があり、およそ110年前の焼岳の噴火で梓川がせき止められ一夜にして誕生した。いくつかの枯れ木は当時の名残。船に建築資材を積み込んで大正池を水路として活用して陸路よりも早く現場に届けることができた。わずか4ヶ月の後期で日本初の山岳リゾートの上高地帝国ホテルが完成した。
建物の角度を周囲の山並みとあわせて最高の眺望を目指した。しかし昭和8年から始まった工事は困難の連続で、時代は2年前に勃発した満州事変に端を発し、戦線が拡大。国家は後戻りできない戦争へと踏み込んでいった。これにより、政府の資金融資が2ヶ月も遅れ後期は大幅に削減。突貫工事を余儀なくされるが上高地の道は整備されておらず、建築資材の運搬すらままならない状態に。そこで池が突破口に。上高地帝国ホテルから45分ほど歩いた場所には大正池があり、およそ110年前の焼岳の噴火で梓川がせき止められ一夜にして誕生した。いくつかの枯れ木は当時の名残。船に建築資材を積み込んで大正池を水路として活用して陸路よりも早く現場に届けることができた。わずか4ヶ月の後期で日本初の山岳リゾートの上高地帝国ホテルが完成した。