東日本大震災からきょうで15年。東日本大震災の死者は1万9711人、行方不明者は2519人。きょうは祈りの日であると同時に次に来るかもしれない災害に備える日でもあった。岩手・宮古市の訓練には震災当時まだ幼かった高校生らも参加していた。備品の点検なども行われた。宮城・気仙沼市の街で唯一のバッティングセンターは震災で残された父と子の約束から生まれた。15年前のきょう、巨大な津波が気仙沼の街を襲った。バッティングセンターを営む千葉清英さんは妻と2人の娘、妻の両親ら7人の家族を失った。助かったのは当時9歳の長男・瑛太くんだけ。父と子の2人をつないだのは野球だった。ある日、瑛太くんが言った「気仙沼につくってよ」という言葉に背中を押された。震災から3年後、気仙沼フェニックス・バッティングセンターが誕生した。最初にバットを振ったのは瑛太くん。打席には千葉さんの思いが込められている。7打席は亡くなった家族の分の打席だという。
震災から15年が経過し、気仙沼の街は人口減少の問題に直面している。震災後、約1万9千人が減った。瑛太くんが通っていた小学校も廃校になった。子どもが減る中でバッティングセンターの経営も厳しくなった。2年前、千葉さんは閉店も考えたが、地元の野球少年から「続けてほしい」という声があり、頑張れるだけ頑張ってみようと思ったという。父と子の約束から生まれた場所はいつしか街のふるさとになっていた。中学1年生の父親は「子どもたちの日常を取り戻すために逆に大切な場所だったかもしれない」と語った。24歳になった瑛太さんは都内で勤務している。それでも故郷を思わない日はない。瑛太さんは「バッティングセンターは私と親父と気仙沼をつないでくれているような場所。15年の自分の歩み、思い出を振り返る場所」などと語った。
震災から15年が経過し、気仙沼の街は人口減少の問題に直面している。震災後、約1万9千人が減った。瑛太くんが通っていた小学校も廃校になった。子どもが減る中でバッティングセンターの経営も厳しくなった。2年前、千葉さんは閉店も考えたが、地元の野球少年から「続けてほしい」という声があり、頑張れるだけ頑張ってみようと思ったという。父と子の約束から生まれた場所はいつしか街のふるさとになっていた。中学1年生の父親は「子どもたちの日常を取り戻すために逆に大切な場所だったかもしれない」と語った。24歳になった瑛太さんは都内で勤務している。それでも故郷を思わない日はない。瑛太さんは「バッティングセンターは私と親父と気仙沼をつないでくれているような場所。15年の自分の歩み、思い出を振り返る場所」などと語った。
