今月23日は太平洋戦争末期の沖縄戦から79年の慰霊の日。この日は旧日本軍による組織的な戦闘が終わった日とされているが、実際にはその後も散発的な戦闘が続いた。こうした戦闘で家族を亡くした当時9歳の男性が、そのときのことを語った。読谷村に住む宮城儀昌さん。当時9歳で記憶は断片的なため、これまで妻以外に家族の最期を話すことはなかった。79年前の昭和20年3月、米軍の激しい艦砲射撃が始まる。読谷村の海岸は、艦艇で埋め尽くされていた。4月1日の上陸を前に、儀昌さんは母親と姉、幼い2人の妹、それに親戚と本島北部に向かった。食べるために必死だったことを覚えている。避難生活は旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日以降も続いた。栄養不足で日に日に弱っていく当時1歳の妹、トモ子さん。儀昌さんの腕の中で息を引き取った。7月7日、七夕の日だった。1週間後の7月15日の夜、食料も底をつき体力の限界に達した儀昌さんたちは投降することにした。しかし山を下りているとき、さらなる悲劇が起こる。照明弾が打ち上げられ、周囲が明るくなると激しい銃撃を受けた。しゃがみ込む自分の近くで、横たわっている母親の姿が脳裏に焼き付いている。母親を埋葬する余裕もなく移動を続け、数日後、収容所にたどり着いた。戦後、親戚に育てられた儀昌さんは、中学を卒業したあと会社員やタクシー運転手として働いた。仕事に励むことで、両親を失った悲しみを抑えていたという。本土に復帰後、30代後半になった儀昌さんのもとに国から贈られてきたのは、母親が旧日本軍に協力した戦闘参加者と認定されたことを示す賞状と勲章。勲章を見ると、なぜ母親たちは命を落とさなければならなかったのか、考えてしまう。母親と妹が亡くなった場所は、今は米軍基地の中にあり入ることはできない。2人の遺骨は戦後、掘り起こした。命日には、ここで手を合わせている。儀昌さんは「今から昔の話だが、二度と若い人たちには同じ思いをさせたくない。だから二度と戦争はやってほしくない、それを自分は祈っています」と述べた。