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「沖縄県公文書館」 のテレビ露出情報

沖縄の地上戦では、県民の4人に1人が犠牲になった。3年前に亡くなった与儀喜省さんが残した手記は、喜省さんの娘・和子さんが持っていた。手記を見せてもらっていたのは、都内の高校に通っているひ孫の寧々さんと幼馴染で、インターナショナルスクールに通う颯大郎さん。夏休みに、和子さんと戦争の記憶をたどる旅に行くことにした。喜省さんは当時学校の教師で、妻と父親と3人で自宅のある南部から北部の山岳地帯まで逃げた。寧々さんらは、自宅のあった糸満市を訪れ、喜省さんのいとこの喜雄さんを訪ねた。この地区では、多くの住民が避難せず、約4割が亡くなった。当時は日本軍が優勢だと伝えられていた。喜省さんの家に井戸を借りに来た日本兵が、北へ逃げるようにと助言してくれたという。喜省さんたちは、爆撃を避けるために夜間に歩いて移動し、宜野湾市の普天満宮に着いた。喜省さんたちが避難した自然壕とは、社殿の裏にある巨大な鍾乳洞。当時は、200人近くが避難していた。4月に米軍が中部から上陸すると、それ以降住民は北に逃げられず、地上戦に巻き込まれていった。
喜省さんたちは、4日かけて北部の山岳地帯にたどり着き、約3か月山で生活した。喜省さん本人が沖縄戦について証言する音声テープがあった。その中で、喜省さんは、食べるものがなく、最後はソテツだということになったと話していた。ソテツは沖縄に自生する植物で、猛毒なため、1週間ほど干さなければ食べられないという。手記には、地元の人は食べ物を持っていても避難民に分けてくれなかったと書かれていた。食べ物が見つからず、父と2人で、他人の畑から芋を盗むことに。日本兵は、住民の食料や家畜を持っていっていたという。餓死する寸前で終戦し、喜省さんたちは米軍に投降した。颯大郎さんは、旅を終え、戦争の被害や悪いところを忘れずに、自分ができることをやっていきたいなどと話した。寧々さんは、手記を読んだ時には想像ができなかった、祖父が頑張って生きてくれたことに感謝しかないなどと話した。喜省さんは、戦争は嫌だ、永久の平和な世界を作りたいなどと記し、手記を締めくくっている。
住所: 沖縄県南風原町字新川148-3
URL: http://www.archives.pref.okinawa.jp/

他にもこんな番組で紹介されています…

2026年7月1日放送 19:00 - 21:54 テレビ朝日
くりぃむクイズ ミラクル9(くりぃむクイズ ミラクル9)
後世に残したい昭和・平成遺産SP。有田ナインの挑戦。昭和35年、僻地の学校を支援する運動がスタート。マークを集めて1点=1円で教材を購入できるシステム。国内外の友達に愛の鐘を鳴り響かせようと続いてきた運動は?正解はベルマーク運動。
有田ナインの挑戦。昭和40年、東京駅直結の東洋一の地下街がオープンした。現在、約180店舗が軒を連ねる。この地下街は?正解は八[…続きを読む]

2026年6月23日放送 23:00 - 23:56 TBS
news23(ニュース)
きのう沖縄・糸満市の平和祈念公園に訪れ、平和の礎に遺族の名が刻まれたことを確認した女性がいた。平和の礎には24万2659人の名前が刻まれている。1945年4月1日に沖縄本島上陸したアメリカ軍が住民を巻き込んで行った沖縄戦では日米双方合わせて20万人以上が犠牲となった。平和祈念公園を管理する平和祈念財団の松川事務局長は平和の礎には一人ひとりの思いが全世界に広が[…続きを読む]

2026年6月23日放送 21:00 - 22:00 NHK総合
ニュースウオッチ9(ニュース)
台湾から111kmに位置する与那国島は太平洋戦争中旧日本軍が見張所を設置。そのため米軍の標的になった。防衛省は与那国駐屯地は防衛上重要な拠点として2030年度地対空ミサイルの部隊を配備し駐屯地を約1.6倍に拡張すると計画している。与那国駐屯地は開設から10年が経過し今年度は対空電子戦部隊を配備予定。また、レーダーの整備も計画している。

2026年6月23日放送 15:50 - 19:00 日本テレビ
news every.NNN戦後80年プロジェクト いまを、戦前にさせない
1945年4月米軍が沖縄本島上陸。民間人を巻き込んだ地上戦が始まった。当時9歳だった神谷洋子さん。沖縄南部の防空壕で艦砲射撃によって母・弟を亡くす。その後はひとり戦場をさまよったという。気がつくと米軍に保護され、トラックで民間人収容所へ連れて行かれた。米軍は生き残った住民を管理化におくため、こうした場所を作っていた。沖縄戦に詳しい専門家に案内してもらった。当[…続きを読む]

2026年6月21日放送 11:00 - 11:45 NHK総合
ファミリーヒストリーあなたのファミリーヒストリー 沖縄編
泡盛を造っている酒屋の山川さんが登場。曽祖父・宗道さんが戦後に創業したという。當眞竹子さんは泡盛の製造に欠かせない麹づくりの職人だった。戦後、竹子さんは他の会社を手伝い手で覚えた温度管理などを伝えた。宗道さんが竹子さんを会社に招いた。宗道さんはペルーに移民したが帰国後、酒造りを始めたという。

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