運命の分岐点は1991年2月17日。緒方貞子が日本人初の国連難民高等弁務官に着任した日だ。緒方貞子はそれまでは一学者で主婦だったが、その日から世界の紛争地に向かい、人道支援のあり方を根本から作り変えていったという。
戦争が続くウクライナの現場を訪れる男がいる。それは第11代国連難民高等弁務官のフィリッポ・グランディだ。現場主義で人々に寄り添っており、それは緒方貞子から教えられたことだという。そんなフィリッポ・グランディは部下として緒方貞子とのことを語った。2人の出会いは1991年の湾岸戦争でクルド難民危機が起きた時だ。緒方貞子は自ら危険なクルド難民キャンプを訪れて支援することを決めた。緒方貞子は政治学者から国連公使になり、難民キャンプを訪れ、そこから現場主義が緒方の信念になったという。
1994年のルワンダ難民の時も緒方貞子は現場入りした。ただ難民の中に虐殺に関わった人も大勢いたという。緒方貞子は武装化した難民キャンプに支援物資を配布するべきか悩んだという。さらにコレラも発生した。そうした中で緒方貞子は浄水装置の設置するなど対策を講じた。しかしルワンダ難民の避難先のザイールでも内戦が起こり避難民は散ってしまい、それでも緒方らUNHCRの職員は救出活動を行った。こうしたことからフィリッポ・グランディは現在も現場の声を聞くようにしていると語った。
戦争が続くウクライナの現場を訪れる男がいる。それは第11代国連難民高等弁務官のフィリッポ・グランディだ。現場主義で人々に寄り添っており、それは緒方貞子から教えられたことだという。そんなフィリッポ・グランディは部下として緒方貞子とのことを語った。2人の出会いは1991年の湾岸戦争でクルド難民危機が起きた時だ。緒方貞子は自ら危険なクルド難民キャンプを訪れて支援することを決めた。緒方貞子は政治学者から国連公使になり、難民キャンプを訪れ、そこから現場主義が緒方の信念になったという。
1994年のルワンダ難民の時も緒方貞子は現場入りした。ただ難民の中に虐殺に関わった人も大勢いたという。緒方貞子は武装化した難民キャンプに支援物資を配布するべきか悩んだという。さらにコレラも発生した。そうした中で緒方貞子は浄水装置の設置するなど対策を講じた。しかしルワンダ難民の避難先のザイールでも内戦が起こり避難民は散ってしまい、それでも緒方らUNHCRの職員は救出活動を行った。こうしたことからフィリッポ・グランディは現在も現場の声を聞くようにしていると語った。