踊りや三味線の名手だった敏子は神楽坂きっての芸者だった。敏子は裁縫も上手かった。その腕は母方・阿部家のルーツと深く関わっている。戸籍で確認できる最も古い阿部家の先祖は宮城・塩釜市。阿部家は仙台の城下町の発展に伴い、幕府や藩と強いつながりを持ち、力をつけていく。当時、綿花の栽培が難しかった東北で厳しい寒さに耐えていた人々のために関西から大量の古着を仕入れて商いをしていた。しかし、阿部家は幕藩体制の終焉とともにその力を失っていく。そうした中、浩市の曽祖父・政治郎は30歳で妻子を連れて上京。銀座の洋服店に住み込み、テーラーを目指して修業に励んだ。そして、明治時代中期に洋裁店を開店させた。しかし、商売が軌道に乗り始めた頃、関東大震災に見舞われる。政治郎は家も店もすべて失ってしまう。
政治郎の孫として浩市の母・敏子が生まれたのは震災から7年後のこと。敏子が5歳のときに父・貞一が他界。翌年、母は再婚し、敏子の下に弟たちが生まれた。9歳のとき、敏子は父方のおばの養女となる。養母・はるは神楽坂で芸者の置屋を営む女性だった。そこで敏子は芸者に魅了された。芸者として活躍する敏子の姿に心を奪われたのが三國連太郎だった。そして、昭和32年に2人は結婚した。
政治郎の孫として浩市の母・敏子が生まれたのは震災から7年後のこと。敏子が5歳のときに父・貞一が他界。翌年、母は再婚し、敏子の下に弟たちが生まれた。9歳のとき、敏子は父方のおばの養女となる。養母・はるは神楽坂で芸者の置屋を営む女性だった。そこで敏子は芸者に魅了された。芸者として活躍する敏子の姿に心を奪われたのが三國連太郎だった。そして、昭和32年に2人は結婚した。