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「豊臣秀吉」 のテレビ露出情報

本願寺は1272年に親鸞聖人を祀る廟堂を京都の五条の大谷に建てたのが由来。その後比叡山の衆徒や織田信長と敵対して各地へ移転を繰り返した。1591年に豊臣秀吉の庇護のもと、現在の場所に壮大な伽藍が建てられた。西本願寺は公家の子に生まれた宗祖親鸞以来、代々の門主が公家と深くつながってきた寺。そのために身分の高い人物をもてなす迎賓館の設えが作られ守られてきた。境内の南東の門には塀で囲まれた迎賓館が佇む。普段は非公開の国名勝庭園の滴翠園の向こうには国宝の飛雲閣が。江戸時代始めに建てられ金閣や銀閣と並ぶ京都三名閣の一つ。鶴岡さんは本願寺はたくさんの人がやってくるが、中でも高貴な人々を招いてくつろいでもらおうと作られた場所だと答えた。飛雲閣はこけら葺き屋根の三層の楼閣建築。特徴的なのは変わった屋根の作りで一層の屋根事態にはいわゆる入母屋屋根。しかし正面右側には入母屋の破風、左側には唐破風がついている。二層は寄棟という屋根の三方の軒に唐破風がつき、三層は寄棟屋根になっている。披雲閣が建てられた当時の入口は船着き場。建物には船で移動していた。対岸の船着き場に玄関がある。最初の通されるのは八景の間で、ふすまと壁に中国の八ヶ所の名所の瀟湘八景が描かれている。
八景の間に続く広間は招賢殿。高貴な客人を迎えるための上段の間は備えられている。背景には大きさの異なる明かり障子が、本来上段の背景には障壁画が描かれるものだが明かりが入る仕組みになっている。飛雲閣の外に出ると西へ伸びる渡り廊下が。その先の黄鶴台は当時最高級のもてなしの設えだった。大きな窯の横に寝所のような小部屋が。江戸時代初期まで内風呂は大変めずらしいもので、客人はここで汗を流しリフレッシュした。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年6月30日放送 12:54 - 14:00 テレビ東京
開運!なんでも鑑定団(開運!なんでも鑑定団)
最初の依頼品は友人のカラオケ喫茶経営者から友情の証に贈られたという大判と小判3枚。我が国で最初に発行された大判は豊臣秀吉が1588年に贈答用として発行した天正大判で、これは金工の名門であった後藤四郎兵衛家が鋳造を手掛け、金貨としては世界最大級の大きさだった。時代が下ると、1601年には徳川家康が贈答用の慶長大判と流通用の慶長小判を発行。これ以降、幕末期までに[…続きを読む]

2024年6月30日放送 6:30 - 7:00 日本テレビ
遠くへ行きたい(オープニング)
内藤剛志が佐賀県勝浦市の名護屋浦へ。安土桃山時代、名護屋城があり豊臣秀吉が朝鮮出兵の拠点として城を築いた。その名残には戦国武将の陣跡が残っている。佐賀県立名護屋城博物館にやってきた内藤。当時の名護屋城を再現した城の模型があり、その当時の城の規模を知った。また大名や外国の使節団をもてなすために茶会を開いていた。その黄金の茶室を紹介した。

2024年6月28日放送 0:25 - 0:55 フジテレビ
私のバカせまい史私のバカせまい史
ヒコロヒーは日本史が好きだという。特に戦国時代が好きだが天下を取るために今日味方だった者が敵になるという血も涙もない行為が裏切り。戦国時代を語る上で大事な要素だという。そこで難しくて理解できないという人のために誰でも興味がもつようにわかりやすく下世話に戦国時代にワイドショーがあったら炎上していた裏切り史を解説。当時ワイドショーがあればSNSが荒れて週刊誌が騒[…続きを読む]

2024年6月19日放送 22:00 - 22:45 NHK総合
歴史探偵(歴史探偵)
大友宗麟は島津軍と戦うも、最終的に豊臣秀吉に援軍を要請する。大友が島津軍に耳川の戦いで敗れた1578年、セバスティアン1世は遠征先で敗北して行方不明に。のちにポルトガルはスペインに事実上併合され、スペイン系宣教師が日本に渡ってくる。キリシタンの数は増え、秀吉、家康は警戒感を抱いた。鹿毛敏夫氏は大友宗麟について、外交に目を向ければ、日本の戦国大名のなかで抜きん[…続きを読む]

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