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「香港(中国)」 のテレビ露出情報

100年前の香港のペニンシュラホテルでの映像が流れた。イギリスの香港統治はアヘン戦争後から始まった。香港の大部分は中国からの租借地という扱いで期限を1997年までとされていた。その後は世界大戦や中華人民共和国の建国などによって大きな影響は受けた。中華人民共和国の建国によって中国国内から香港に人が流れるようになって、人口は4倍に膨れ上がったという。
この頃、香港映画会で活躍する一人の少年がいた。それは後の映画スターであるブルース・リーだ。幼い頃から名子役として活躍しており、そうした中でブルース・リーはイップ・マンからカンフーを学んだ。1962年には香港へ難民が押し寄せる出来事があり、その中にはのちの実業家のジミー・ライも含まれていた。こうした不法難民は九龍城塞という魔窟で暮らしており、そこは治外法権のようになっていたと伝えた。
1967年になると毛沢東の商品や肖像画が出現するようになった。この頃、中国では毛沢東が、資本主義を掲げる党幹部の打倒を叫び文化大革命が始まっていた。香港でもこの動きに呼応して親中派による六七暴動が起きた。そうした中でブルース・リーはアメリカに渡り、ドラマに出演し、香港の映画にも出演してヒットさせ香港最大のスターになった。ただブルース・リーは32歳の若さで急死した。この時期に香港は急速に経済的に成長し、エリザベス女王も訪れたという。一方で犯罪も多くなったという。
1982年。イギリスのマーガレット・サッチャーが香港返還交渉のために中国のトウ小平と会談した。そこで一国二制度を2047年まで維持することが決まった。この頃になると中国系起業家が台頭するようになり、その中にはジミー・ライも含まれていた。1989年には天安門事件が起こり、少なくとも300人以上が亡くなったという。この事件は香港の人に大きな衝撃を与えたという。そのため香港から海外に移住する人が増えたという。
ジミー・ライはそんな香港にあえて残り、中国に対峙することにしたという。ジミー・ライはメディアへも進出することになり、中国政府と対立姿勢を鮮明にした。そして1997年に香港は中国に返還された。その後は一国二制度を行うという約束だったが、中国政府は民主化を排除する動きをして約束を守らなかった。そして2020年にジミー・ライはついに逮捕された。ジミー・ライは現在も裁判で戦いを続けている。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年6月5日放送 3:45 - 4:30 TBS
TBS NEWS(ニュース)
36年前、自由と民主主義を求める学生や市民たちが天安門広場に集まった。政府は軍を出動させ、これを弾圧。多くの犠牲者が出た。天安門事件は、中国国内では今でもタブーになっている。張さんは、息子を天安門事件で失った。同じく事件で家族を亡くした人々とグループを立ち上げ、今も事件について発信し続けている。張さんは、中国共産党は天安門事件を隠蔽し、事件について人々が忘れ[…続きを読む]

2025年6月4日放送 15:49 - 19:00 TBS
Nスタ(ニュース)
2020年まで天安門事件の追悼集会が行われていた香港も厳戒態勢。香港国家安全維持法などで、反政府的な言動の取締を強化したうえ、親中派団体によるイベントで追悼集会は封じ込まれたかたち。香港の民主派団体「社会民主連線」は1日、街頭で演説を行い、自由を封じ込めようとする政府の政策を批判した。この日、警察は活動の様子を監視していた。香港では、最大の民主派団体「民主党[…続きを読む]

2025年6月3日放送 20:55 - 22:00 TBS
マツコの知らない世界(マツコの知らないピンクの世界)
はねP・菜実子さん夫婦は自宅兼店舗もピンクに塗装し、屋根もピンクに塗装したが、ここは賃貸物件で許可はしっかり得ているという。1人乗りのマイクロカーもピンクに塗装され、靴箱には30足ものピンクの靴が並んでいた。床・壁紙も自分で貼り直したのだといい、紅茶もハイビスカスとルイボスでピンク色となっている。全国のピンク好きを集めるパーティも年に1度主催し、普段は着るの[…続きを読む]

2025年6月3日放送 10:25 - 13:55 TBS
ひるおび(ニュース)
天安門事件からあすで36年となるのを前に、アメリカ・ロサンゼルスで天安門の記念館が開館した。天安門の記念館は元々は香港に開設されたが、国家安全維持方の施行ののちに閉鎖さた。おととしニューヨークで再開設されたが、家賃高騰などで運営が難しくロサンゼルスに移設したという。

2025年6月1日放送 19:58 - 20:56 テレビ朝日
ポツンと一軒家香川県のポツンと一軒家
山崎さんに案内してもらった別の島で、ポツンと一軒家の主、隆さんと妻・好美さんに話を聞いた。周りに民家はなく集落は峠の向こう側にある。元々隆さんの家ではなく、貨物船を運用していたラーセンさんの家で当時はラーセン邸と呼ばれていた。その後造船会社の保養所になり、知り合いが管理人をしていたつながりで隆さんが12年前に購入し2年前に移住した。家は会社の名義になっている[…続きを読む]

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