羽生名人は将棋の対局中、指し手をどのように考えているのか。その思考方法を探るため対局中の脳波を測定した。脳波の測定は日本医科大学の河野貴美子研究員にお願いした。河野さんは脳生理学の専門家。対局相手はプロを目前にして勉強中の中座真さん。公式の対局と同じように真剣に戦うことができる相手だ。測定するのは脳波のうちのβ波。β波は脳が活発に活動している場所から発生する。対局開始後将棋に集中してくるにつれて羽生名人の脳が活発に動き始めた。羽生名人の対局中の脳波を見ると右側と後ろ側が活発に活動している。右脳はイメージや空間認識を司るところ。脳の後ろの部分は視覚野と呼ばれ、映像が映し出される場所。比較のために素人が将棋を指しているときの脳波も調べた。脳の活動はやや左側に偏っている。左脳は言語脳と呼ばれ、言語や論理的な思考を司っている。両者を比べると羽生名人の脳の活動は言語や論理を司る左脳をほとんど使わずイメージや映像を思い浮かべる右脳に大きく偏っていることが分かる。羽生名人は論理的な思考の積み重ねではなく、頭の中に将棋盤をイメージしながら先を読んでいた。河野さんはこれまでにも何人かのプロ棋士の脳波を測定した経験がある。そのなかでも羽生名人は特に脳の活動が右に傾よるという極めて変わった特徴を持っているという。羽生名人の先々を読むスピードをはかる実験を行った。ある将棋の局面を見てもらい、10秒間で何手先まで読めるのかを試した。羽生名人は10秒間で27手先まで読んでいた。その思考の様子を同じ10秒間で再現する。1秒間に約3手。論理の積み上げではなく映像イメージによる思考だからこそできる早業だ。この映像的な思考能力は将棋以外でも発揮されるのか。鳥が並んでいる絵を見てその数を当てる実験を行った。絵を見ていた時間は約1秒半。映像を瞬時に頭の中に焼き付けて、あとから数を確認しているとしか思えない。日本医科大学の河野さんの測定でさらに羽生名人には独特の脳波の動きがあることが分かった。思考を活発にすると逆に脳がリラックスしてくるという現象だ。過去の激しい戦いの指し手を思い浮かべてもらい脳波をはかり、安静時と比較する。羽生名人の安静時に出たα波が表示された。一般には物事を考え始めるとα波の周波数は高くなりグラフは右の方へ移動する。ところが羽生名人は思考をはじめるとα波は反対に周波数が低くなり、左の方へ移動した。α波は周波数が低くなるほどリラックスしていることを意味する。思考に入ったとたん脳がリラックスするという常識では考えられない結果だ。河野さんは「こういう脳波は僧侶が深い瞑想に入ったときに見られている。これを考えると頭の中で必死に考えているというよりも回答が宇宙の彼方からふわっと浮いてくるような思考方法じゃないかなという気がする。」と話す。右脳を使った映像的なイメージによる思考、深い瞑想から湧き出るようなひらめきはが羽生名人の頭脳の秘密だ。