NNNドキュメント’25 テニアン 玉砕と原爆の島
リゾート地であるサイパン島のすぐ近くにあるテニアン島。テニアン島の主な産業は観光業で、牧畜・農業も行われている。人口は約2000人。この日サンホセ村のレストランでは87歳となった女性の誕生日パーティーが行われていた。テニアン島は現在は住民たちが支え合う平和な島となっている。ノースフィールドにはかつて発進基地があり、日本に投下された原爆はこの地で組み立てられた。原爆組み立て工場跡地は現在も残っており、原爆ピットには当時の写真が残されている。原爆投下部隊はアメリカ陸軍航空軍の第509混成群団で約1800人、その指揮をとったのは当時30歳のポール・ティベッツ大佐。1945年8月6日、午前1時45分に発進し、午前8時15分に広島に原爆が投下された。8月9日午前11時2分には長崎に原爆が投下され、日本が降伏した。原爆が勝利をもたらしたとし、ポールはアメリカの英雄となった。原爆犠牲者は約21万人で、生き延びた被爆者たちは後遺症やいわれのない差別に苦しみ、放射線による健康被害は今も続いている。
テニアン島の2月、佳子はテニアン島出身の男性と結婚し、36年前に移り住んでおり、6年前まではテニアン高校で日本語教師をしており、2005年には生徒たちを引き連れ原爆資料館で原爆被害の実態を学ばせていた。戦闘記念式典に出席したポール・ティベッツは司会者からはアメリカの英雄として出迎えられ、結果として自分たちは200から300万の人々の命を戦争を終わらすことで救ったのだなどと演説し、このポールの主張は長い間アメリカで多くの人々が支持していた。アメリカ軍によるイランの核施設攻撃についてトランプ大統領は本質的に広島・長崎の原爆投下と同じで闘いを終わらせる効果があったとした。テニアン高校の生徒達を取材した様子を紹介。ポール・ティベッツは原爆投下を肯定し続け、一方でだからこそ戦争は絶対に起こしてはいけないと言葉を残している。
テニアン島にはかつて多くの日本人が暮らしていた。テニアン島は1920年から日本が統治し、約1万5000人が移住し、その地はサトウキビ栽培に適し、市街地には映画館やカフェもあり、移住者の約7割が沖縄県出身であった。沖縄県中城村には戦前のテニアン島で暮らしていた新垣がいる。新垣は1934年にテニアン島で生まれであり、同級生は50人ほどいたという。1944年6月にサイパン・テニアン戦が始まり、アメリカ軍がテニアン島北部から上陸し、新垣一家は南部のカロリナスへ逃れていった。当時テニアン島では日本の軍と民間人が約1万5000人が亡くなったとされている。サイパンやテニアンでは当時、多くの人々が海に身を投げ自ら命を断っていた。新垣も両親に一緒に海に身を投げようと提案されるも、海に浮かぶ死体を目の当たりにし、山奥へ逃げると家族も一緒についてきてくれ、家族皆助かることが出来たなどと明かした。