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戦国の風雲児独眼竜伊達政宗は1567年に米沢城主伊達輝宗の嫡男として生まれ、5歳の時天然痘に罹り右目を失明、眼球も大きく腫れ上がったため人目を避けるように内気な性格になった。9歳の時守役だった片倉景綱に命じ刀で右目をくり抜かせると快活になり文武両道に精進するようになったという逸話が残されている。15歳で初陣を飾ると豪胆ぶりが評価され18歳で家督を譲り受け、周囲の有力大名を次々討ち果たし23歳で東北南部114万石を制圧。豊臣秀吉が発した惣無事令に背く行為だったので激怒、上洛を命じられた政宗は禿頭に切腹の際着用の白装束姿で謁見したため潔さを気に入られ領地を召し上げられたが手厚く持てなされた。朝鮮出兵の時は3000の兵に高さのある金色の笠などを付けさせて出陣式に出席、絢爛たる装いに秀吉は喜び見物人からも喝采を浴びた。以降人目を引く洒落た身なりの人を表すだて者という言葉に「伊達」が使用されるようになったとされる。関ヶ原の戦いでは上杉家家臣直江兼続を撃破し東軍勝利の貢献、2万石の領地を与えられた。政宗は新たに居城を構えた仙台の発展に尽力、北上川の治水事業や荒れ地開墾を農民だけでなく武士にも奨励、新田を知行地として与えた。正宗が晩年情熱を傾けたのは料理、「馳走とは旬の品をさり気なく出し主人自ら調理してもてなすことである」とし毎日の献立は熟考、料理を外交手段をして用い江戸城や江戸藩邸で徳川歴代将軍を選りすぐりの逸品でもてなした。徳川家光のもてなしの際は味見から接待前自ら行い鶴の吸い物といった珍味など54種類もの料理が共された。1636年70歳で他界、家光は偲び江戸で7日間、京で3日間狩猟と演奏を禁じ喪に服した。依頼品は伊達政宗の書状。宛名は不明だが将軍にあて料理をするといった食通の政宗らしい内容となっている。