2025年8月9日放送 14:30 - 16:00 フジテレビ

もしも君が僕の最期の声を聞いてくれたら
〜新証言 女学生極秘部隊と特攻隊の恋〜

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もしも君が僕の最期の声を聞いてくれたら〜新証言 女学生極秘部隊と特攻隊の恋〜
もしも君が僕の最期の声を聞いてくれたら〜新証言 女学生極秘部隊と特攻隊の恋〜

鹿児島県鹿屋は古くから飛行場があり太平洋戦争末期、3つの海軍航空基地が整備され沖縄への攻撃を指示する第五航空艦隊司令部が置かれた。特別攻撃作戦とは搭乗員が爆弾を搭載した軍用機や小型艇で敵艦に必死の体当たりをする太平洋戦争末期に行われた作戦で海軍では「神風特攻隊」と呼ばれ10代、20代の青年が亡くなった。連絡手段はモールス信号。特攻の操縦員は特別なモールス信号が教えられていた。戦争当時、17歳の高等女学校の生徒は特攻にまつわる極秘任務を担っていた。

(オープニング)
オープニング

女学生が命じられた特攻に関する極秘任務。貴重な証言と秘蔵映像で忠実にドラマで再現した。

もしも君が僕の最期の声を聞いてくれたら〜新証言 女学生極秘部隊と特攻隊の恋〜
もしも君が僕の最期の声を聞いてくれたら〜新証言 女学生極秘部隊と特攻隊の恋〜

80年前、最大の特攻基地だった鹿屋。10年ほど前、鹿屋市平和学習ガイドらが戦争体験者に聞き取り調査を始めた。17歳の少女たちが担った極秘任務と特攻隊員の素顔が明らかになった。

高山高等女学校を卒業した原田さんは「学生中はずっと戦争だった。日本は勝つもんだと思い込んでいた」などと述べた。11年前、3人の戦争体験者に対する聞き取り調査の映像記録を紹介。終戦当時、17歳の高等女学生たちが学徒通信隊を担っていた。鹿屋航空基地史料館・久保田さんは「100名の女の子たちがレベルの高い試験を合格して戸籍まで調べられた。命がけで協力をしてくれた女の子たち」と話した。鹿屋近辺の4つの高等女学校から25人ずつ選抜された。海軍が用意した宿舎で集団生活をしていた。彼女たちが勤務した場所がまだ残されていた。学徒通信隊だった岩重さんは現在97歳。10年前、特攻隊の慰霊祭で遺族に通信隊のことを話していた。隊員ごとに任務が異なることが分かった。当時、日米共に無線通信はモールス信号が主流だった。通信隊の田中さんの任務はモールス信号に関わる任務だったと考えられる。情報の内容を把握していた可能性がある。飛び立った特攻隊員の最後の声を無線で聞くことになる。

当時の地下壕電信室がそのまま残されている串良基地跡地下壕第一電信室を紹介。特攻隊との最後の無線を受信していたという。元鹿屋市平和学習ガイド・小手川さんは「ツーという音が消えた時が敵の戦艦にぶつかったか、敵の砲弾でやられて亡くなったか。とにかく最後のツーなんです」、鹿屋高女学徒通信隊・田中さんは「涙ながらに見たり聞いたりしていた」などとコメントした。鹿屋に集まった特攻部隊は最新兵器「人間爆弾・桜花」を装備していた。

昭和19年10月20日にフィリピンで撮られた写真。最初の特攻作戦を見送っているのは海軍参謀長・大西滝治郎中将。昭和20年、鹿屋に特攻の司令官として宇垣纏中将が着任。第721航空隊、通称神雷部隊が編成された。特攻部隊の拠点はとても不憫な環境だったと証言が残っている。ここで撮られた写真に写る隊員たちは笑顔が満ち溢れている。人間爆弾・桜花は1人乗りで自力飛行が出来ない爆弾だった。米軍が桜花を分析した図面には「BAKA」と書かれていた。戦後、鹿屋基地の周辺で米軍によって撮影された映像を紹介。当時、鹿屋には300機の桜花があった。桜花の整備を担当していた立元良三さんは96歳。聞き取り記録には若者らしい素顔がうかがえる証言が数多くある。特攻隊員は出撃命令が下るまでは自由な時間が多かった。鹿屋高等女学校の通信隊・岩重さんは男女の交流に厳しかったことを覚えていた。

女性たちの事情はお構いなしで、限られた命で恋心を燃やす隊員たちもいた。地元鹿屋出身だった徳永幸雄さんの弟と妹が当時のことを話してくれた。父親から「明日は死ぬ身だぞ。後に残った人はどうするのか」と怒られたという。出撃までの時間を鹿屋の人たちを過ごした神雷部隊。基地近くにあった和菓子店にも特攻隊員が集まっていた。老舗菓子店富久屋の六女・北村さんは「女の子がいてお菓子を食べに来てみんなでわいわい騒いで。特攻隊の方と仲良くなった」などと述べた。6人姉妹の父・若松さんは我が子のように店に集まる隊員の面倒を見たという。特攻隊員と次女が恋仲になり、結婚を了承。三女の娘・武田さんは当時のことを母に聞いていたという。長女は戦時中に結婚。相手は学徒通信隊と一緒に働く通信兵だった。三女は女子通信隊員と同級生。昭和20年3月から激しい空襲を受けるようになっていた。鹿屋を空襲した際に米軍機が撮った映像を紹介。3カ月以上にも渡り激しい空襲を受け、多くの住民が犠牲となった。基地も大きな被害を受けた。

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もしも君が僕の最期の声を聞いてくれたら〜新証言 女学生極秘部隊と特攻隊の恋〜
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特攻人形を作る学徒通信隊をドラマ化。現存する特攻人形を紹介。いくつ持っているかが女性たちからの人気のしるしだった。隊員同士、子どものように競っていた。

神雷部隊の突撃が決まり、特攻隊員の徳永幸雄はゼロ戦に乗って出撃することになったエピソードをドラマ化。恋愛経験のない若い隊員のために、出撃前、女性と話をさせてやりたいと先輩隊員が通信隊の女性に頭を下げることもあったという。あの人素敵だな、格好いいなとか思うことがあったかについて、鹿屋高女・学徒通信隊だった田中然子は「ある」と答えた。

出撃前夜、神雷部隊・特攻隊員の徳永幸雄が自宅に帰った際のエピソードをドラマ化。徳永の妹で、当時9歳だった稲村ツヤ子は「なんで自分からそんなところに行くのかって母が聞いたら今度の戦争は僕たちが行かなかったら負けるんだって言ったそう」などとコメント。

特攻弁当に関するエピソード、神雷部隊・特攻隊員の徳永幸雄が自宅に帰った際のエピソードをドラマ化。通信隊は出撃後に特攻隊員が機内で食べるお弁当を詰める仕事があった。普段は白米もろくに食べられない食生活の中、特攻隊員のお弁当は豪華なものだった。徳永の妹で、当時9歳だった稲村ツヤ子は「飛び出す時に家の周りを3回まわるから、その時は僕だから見送ってくれと」などとコメント。昭和20年3月21日、第一神風桜花特別攻撃隊が出撃。徳永の母は竹竿に手ぬぐいを巻き付け、力の限り振り続けた。

米軍機が撮影した戦闘中の映像には、次々と撃墜されていく様子が映っていた。一式陸上攻撃機が撃墜される写真も紹介。昭和20年3月21日の作戦は、戦果はなく、160人もの隊員を亡くすという失敗に終わった。その戦闘の様子を聞いていた通信隊、神雷部隊・特攻隊員の徳永幸雄のエピソードをドラマ化。徳永は帰って来ず、家族は3か月後、新聞でその死を知った。遺骨の箱に入っていたのは貝殻が3つ。当時、珍しいことではなかった。機体不良により引き返してきた隊員もいた。次々と出撃する神雷部隊は大きな成果をあげることができぬまま、命も飛行機も失い続けていた。空襲が頻発する中で、女子通信隊も必死に任務を担っていた。特攻で足止めすることができず、米軍は沖縄に上陸。戦況は悪化するばかりだった。

明日の命もわからない中で、恋する人と手紙のやり取りをするエピソードをドラマ化。その受け渡し役を担ったという子どもたちの証言が残っている。

2度目の出撃が決まった神雷部隊・特攻隊員のエピソードをドラマ化。ドラマには妊娠した同級生を気遣う学徒通信隊の若松敦子が登場。富久屋の三女・敦子の娘である武田久美子は「子どもができてしまって大変なことが起こった。(母の)同級生で、特攻に行くのに女性が同情したんじゃないかって」などとコメント。富久屋の三女・敦子は妊娠した同級生の世話をし続けたそう。

神雷部隊の特攻隊員・鈴木三郎(仮名)は、出撃を翌日に控えていた。学徒通信隊の楠野サキエ(仮名)は、鈴木に出撃時に持って行く人形を手渡した。

神社に参拝して一礼する特攻隊員。一人づつ杯を受け取る。この映像は再現したもの。田中然子さんは「そういう時代を行きている」と語る。鹿屋海軍航空基地からの特攻作戦で出撃した隊員は1271人、908人が戦死。6月23日、沖縄陥落。特攻作戦の責任者、宇垣纒中将。鹿屋基地を放棄し司令部を大分に移動することを決定 。この時、女子部隊も帯同して任務を続けることになった。8月、広島、長崎に原爆投下。昭和20年 8月15日終戦。その日の夕方、宇垣中将は最後の特攻作戦を決行、帰ることはなかった。勝目アサエさん、原田葉子さんは「なんで戦争が済んだのに出ていったのか?」と話す。海軍参謀長の大西瀧治郎中将は8月16日自決。鹿屋市金浜海岸での写真。昭和20年9月4日、進駐軍上陸。2025年6月19日、80年目の慰霊祭。

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