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東日本大震災からきょうで14年。地震発生時刻の14時46分にあわせ、各地で黙とうが行われた。東日本大震災原子力災害伝承館・高村昇館長に話を聞く。
東日本大震災からきょうで14年。福島第一原発の20キロ圏内には、多くの帰還困難区域が残っている。福島・楢葉町を襲った津波を記録した男性に話を聞く。楢葉町を襲った津波は高さ10m超だったという。東日本大震災が起きた2011年、スマートフォンの所有比率は約20%。そのため津波などが記録された映像の多くは専用の機材を持っていた人によって撮影されたが、東日本大震災から13年の去年はスマホの所有比率が約97%ということもあり、去年の能登半島地震では多くの人が映像を記録していた。さらにドライブレコーダーの搭載率も50%超となった。そこで、能登半島地震におけるドライブレコーダーの映像を集めた。
オープニング映像。
石川県・珠洲市・宝立町・鵜飼地区で観測された津波の痕跡高は約2.7mで、県内で唯一津波による死者が3人出た。震災当時高台にある特別養護老人ホームの送迎車のドライブレコーダーには16時6分頃に震度5強の前震の揺れが確認でき、その後送迎車が住宅地に進入して利用者の降車準備をしていた16時10分に震度6強の地震が発生し、車や周りの建物が倒壊する様子などが確認できた。地震後にはすぐさま高台に避難する人たちが確認でき、中には一回部分が潰れてしまって靴が取り出せなくなったため裸足で走って避難する人たちも確認できた。
能登半島地震から3カ月。警察庁が調べた228人の死因の約4割が圧死だった。鵜飼地区の消防団のポンプ車などがあった詰め所は、津波到達区域にほど近い場所にあり、付近の倒壊被害は甚大で、家族や本人が被災した団員も多くいた。団員全員が詰め所に集まることはできず、車での移動が難しいなか、現場にたどり着いても資機材がなく、十分な救助活動ができなかったという。副団長がまとめた報告書には、「余震で家屋の倒壊が進み、2階から侵入して頭部に手を当ててみることはできたが、バイタルが確認できず、救出できないまま撤退」「心拍・呼吸もなかったことから心肺蘇生はせず次の現場に向かった、家族の前での活動でもあり、せめて胸骨圧迫だけでもするべきだった」などと記されている。
約4.7mという石川県で最大の痕跡高を観測した能登町白丸の津波。海から約50mの佐藤さん住宅。その前には川が流れている。住宅の裏手には、高台まで登れる階段があり、3分とかからず高台にたどり着けるが、帰省していた孫たちのため、寒さをしのげる車での避難を選んだ。午後4時35分、佐藤さん家族は、二台の車に分乗。その1分後、みるみる川の水位が上がり、道路に溢れ出す。車に乗っていた孫たちは、車から降りて納屋の奥へ。建物には津波が叩きつけていた。津波が押し流してきた家屋が庭に流れ込む。長女と孫二人を乗せた車は、流されていった。納屋の入口の隙間に身を隠していた長女の夫は、子どもたちを探しに納屋を出ようとするが、引き波に押し流されなすすべがない。家族に1人の犠牲も出なかった。車に乗り流された長女と孫2人は、衝撃で開いた後ろのドアから脱出できたという。佐藤さんは、適切な避難の大切さを感じてほしいとしている。
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- 令和6年 能登半島地震白丸(石川)
約15mの津波にのまれた請戸小学校に通っていた横山和佳奈さんは、双葉町にある原子力災害伝承館に勤めながら語り部としての活動を行っている。横山さんは津波を目撃することなく避難していて、再び訪れたのは震災から3年以上たってからの事だった。語り部になろうと思ったとき、多くの人から話を聞いたという。取材を終えた高崎春アナウンサーは、東北の人たちへの聞き書きをまとめた本を朗読する「語り手」から始めようとしている。