2026年9月27日放送 10:00 - 11:00 テレビ朝日

リーダーズ サーチ!街でウワサの匠さん
東京の地名の秘密と歴史を匠さんと(秘)調査

出演者
城島茂 
(城島茂のリーダーズ サーチ!)
街でウワサの匠さん 地名から紐解く東京の歴史の匠さん

地名から紐解く東京の歴史の匠さんを紹介する。銀座の地名の由来は江戸時代に銀貨の鋳造所があったことから名付けられた。「三軒茶屋」からスタートする。

三軒茶屋 地名の由来を歴史の匠と調査 渋谷から2駅 三軒茶屋なぜこの地名に?

地名の由来を歴史の匠と調査する。渋谷から2駅のおしゃれな飲食店などがあるエリアで住みたい街ランキング常連の「三軒茶屋」江戸文化と地名の研究をする大石学さんが解説する。1633年に当時世田谷区がまだない時代に区域の村々がある中、太子堂村と上馬引沢村の領邦を三軒茶屋と呼んだ。地名の由来は「三軒の茶屋があったから」。様々な資料などがあるが江戸時代中頃までは茶屋は2軒しかなかったがあることをきっかけに増えたという。お茶屋の一つ「角屋」に向かう。

“三軒の茶屋”今はどうなっている?1軒目捜索中

地名の由来調査、三軒茶屋は「3軒の茶屋があったから」だが匠の解説では江戸時代にもともと2軒だったがあることが大流行して3軒に増えたという、一つ目の茶屋「角屋」を調査する。現在は喫茶店になっている。江戸時代の茶屋は喫茶店というより宿泊・食事・旅支度などができる今の“道の駅”のような存在だった。

“三軒の茶屋”今はどうなっている?2軒目捜索中

地名「三軒茶屋」の由来を歴史の匠と調査。2軒目の茶屋「しらがき」に関係する人たちのもとへ向かう。茶屋の末裔保科さんが営む居酒屋があるが現在は三軒茶屋交差点のカラオケ店のビルになっている。当時使っていたとみられるやかんや家計図のようなものを紹介した。元は信州の高遠に保科家の先祖があり長野の古く豪族から大名になる名門で当時を知る貴重な調書ということ。家伝によると保科弾正とは武田信玄の家臣保科正俊のことで、孫の正光は徳川秀忠から隠し子を預けられ後継として養育、隠し子だった正之は後会津藩初代藩主になる。

“三軒の茶屋”今はどうなっている?3軒目捜索中

「三軒茶屋」のち名の由来を歴史の匠と調査。三軒目「田中屋」があった場所へ向かう。現在は陶器店として続けているが茶屋は明治時代まで営業していた。祖父の話では広い土地があり土方歳三など新撰組が遊びに来ていたなどと話していたということ。匠によると試衛館が出稽古に行くときに通ってもおかしくないということ。

三軒茶屋 地名の由来を歴史の匠と調査 “三軒の茶屋”人気のワケは「大山詣り」

三軒茶屋の地名の由来の手掛かりがある場所に向かった。向かった先にあったのは、神奈川県丹沢の霊山・大山を参拝する大山詣りが大流行した頃に建てられた大山道の道標。江戸時代の鳶や大工の職人たちが「木太刀」を担いで大山に奉納した。街道が参詣客で賑わうようになると、新しく道路を整備。現在の玉川通りをほぼ同じルートに近道が作られた。この大山道の道標は、1749年に「大山詣り」に向かう旅人の案内用に建てられ、再建されてきた。また、江戸から富士山に行くには箱根の関所を通るための手形が必要だったが、「大山詣り」は手形不要の手軽な旅行だったことも流行した背景にある。当時、「大山詣り」には年間20万人の人が行くほどで、葛飾北斎の絵で、すごろくも作成された。江戸時代中頃までは、茶屋は2軒しかなかったが、新しくできた道にもう一軒の茶屋「角屋」ができ、地名が「三軒茶屋になったという。

四谷 地名の由来を谷マニアの匠と調査

今回、「四谷」の地名の由来を教えてくれるのは、「東京スリバチ学会」創設者で谷マニアの皆川典久さん。匠についていくと、そこには一般的なマンホールとは穴の形状が違うマンホールがあるなど、谷底にいる証拠がいくつか見つかった。3人がいる谷を含めて4つの谷があり、皆川さんによると、谷マニアからすると一番正しい説だという。また、東京都心ほど谷間が多く、それは関東ローム層にしみ込んだ雨水が湧き出て土地を削っているからだそうだ。そして次に向かった場所には、谷の安全を守る施設が公園の地下にあった。

四谷 地名の由来を谷マニアの匠と調査 公園の地下に隠された驚きの施設

公園の地下には調整池がり、水害を防ぐため、大雨の際に一時的に雨水を貯めて川や下水道へ流れる水の量を調整し、浸水被害を軽減している。25mプール約47杯分の水を溜めることができる。東京下水道局では、この調整池をつくったことで、浸水被害を軽減している。

谷を一望する高台の寺

四谷の谷を一望できる高台の寺・真英寺。江戸時代では、高台に武家・谷間に町人が暮らしていたという。

江戸町人の楽しみ「角打ち」を体験

江戸時代の町人の楽しんだといわれるのが、酒屋での「角打ち」。そのスタイルを変わらず続けている1850年創業の地酒専門店・鈴傳。江戸時代では兵庫の灘の酒を飲み、酒の肴は塩、豆、味噌だったという。また、四谷では建て替えで江戸・明治期の徳利が出土するという。

なぜ四谷が「怪談」の舞台に?意外な理由

怪談の匠・堤邦彦さんによる四谷怪談の誕生秘話。四谷に怪談が多い理由について。高台は大名・武家の屋敷で谷間に住む町人にとっては何が行われているかわからない場所だったため、怪談が広まったという。四谷怪談は夫の裏切りにより、命を落としたお岩さんが怨霊となり復讐する物語。怨霊となったお岩さんは夫・伊右衛門をはじめ、裏切りに関わった人々を追い詰め、破滅へと導いていく。お岩さんが住んでいたというのが、現在の於岩稲荷田宮神社。四谷怪談は、1825年に4代目・鶴屋南北が歌舞伎「東海道四谷怪談」の制作を手掛け、赤穂浪士の討ち入りを題材とした「仮名手本忠臣蔵」の外伝的な作品として作られた。

日暮里 地名の由来を匠と調査 もともとの地名は??村

江戸時代からの歴史を受け継ぐ「日暮里」の地名の由来とは。教えてくれる匠さんは、浮世写真家の喜千也さん。喜千也さんによると浮世写真とは、亀戸天神境内という写真を見ると、浮世絵と同じように、藤の花が咲いていて時期・場所・橋の位置を合わせて、現代の風景を切り取っている。喜千也さんは、歌川広重の「名所江戸百景」などを題材に、昔と今の風景を比較した浮世写真を制作する江戸雑学の専門家である。日暮里駅の辺りで喜千也さんが解説をする。諸説あるが喜千也さんによると、江戸城を築いたといわれる太田道灌が、この日暮里の辺りに出城を築いて、それを配下の新堀玄蕃に任せて、その名前から日暮里の一帯を新堀村と名付けていた。それが何故、日暮里という字に変わったか、そのヒントが江戸時代に描かれた「江戸名所図会」という冊子にある。「江戸名所図会」に、江戸の名所や歴史を記した絵と文章で、観光案内している本で、絵の部分が日暮里だけで7ページに渡って連続で描かれている。人気行楽地の日暮里は、沢山の浮世絵が描かれた。きょうは、名所絵といわれる浮世絵を見ながら、この日暮里を巡る。

江戸時代は人気行楽地 ヒントは浮世絵

日暮里の地名の由来を、匠と城島茂と武内さんが調査する。日暮里の江戸時代は人気行楽地で、ヒントは浮世にある。匠によると、絵歌川広重作の「道灌山虫聞之図」の浮世絵は、虫の音を聞く虫聞を描いた作品で、道灌山は日暮里の道灌山通りの辺りで、江戸時代は虫聞きの名所だった。「道灌山虫聞之図」が描かれた場所の辺りを歩きながら、調査していく。歌川広重の名画はどこで描かれた?浮世絵の風景は今も残っているのか?

歌川広重の浮世絵に描かれた場所を調査

日暮里の地名を紐解くため、歌川広重の浮世絵に描かれた場所を調査中。城島さんらは、浮世絵と同じような道がのこっていることを発見し、浮世絵で書かれた風景と同じように写真を撮った。続いて、「日暮里諏訪の台」が描かれた諏訪神社へ向かうことに。「日暮里諏訪の台」には、背景に筑波山と日光連山が描かれていたが、今は建物が建っており、山は見えなかった。しかし、神社の境内の階段には絵に描かれた場所と似た場所があった。他にも、「日暮里寺院の林泉」など日暮里に関する浮世絵がいくつも描かれており、当時は花見や月見ができる人気行楽地だったことがうかがえる。江戸から多くの文人が訪れ、詩や俳句などを詠んだという。

俳人・正岡子規が愛した団子を調査

日暮里は文人墨客がよく集り、俳句の会などをよくやっていた。「芋坂も団子も月もゆかりかな」という正岡子規の句にもでてくる芋坂の団子のお店にやって来た。創業は1819年で藤の木茶屋という茶店から始まり、かやぶきの茶店が明治22年まであったという日暮里を訪れる人々に愛されてきた羽二重団子。正岡子規や夏目漱石の作品にも登場し、「吾輩は猫である」では「芋坂の団子屋」として登場。江戸時代から続く羽二重だんご(煎茶付き)770円は生醤油の付け焼きとこしあんの2種類。正岡子規はあんのほうが好きで「あん付き3本 焼き1本食う」と随筆に書いてあるそう。試食した城島さんは「羽二重と例えるのが分かる」とコメント。

なぜ「新堀村」が「日暮里」に?

新堀村がなぜ日暮里になったか?それは日が暮れるまで楽しめる里という意味合いで、後に日暮里という字があてられるようになったという。城島さんは江戸の頃の方々も、今の我々も楽しみ方というのは共通しているんだなと感じたなどとコメントした。

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