- 出演者
- 水原恵理
イタリア・フィレンツェは中世ヨーロッパの芸術の都であり、メディチ家が支配した土地。メディチ家は14世紀になると銀行家として台頭し、政治の実権を握ってフィレンツェの支配者として君臨。多くの芸術家のパトロンとなり、ルネサンス文化の発展に大きく貢献した。今も街の各所にメディチ家の紋章が残っている。フィレンツェの象徴と言われる「サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂」は完成までに140年以上もかけられた。天蓋の球はレオナルド・ダ・ヴィンチの師匠であるヴェロッキオが手がけ、ダ・ヴィンチも制作に携わったと言われている。アルノ川に架けられたヴェッキオ橋はフィレンツェ最古の橋。橋の両側には貴金属を扱う店が並び、多くの観光客で賑わっている。メディチ家の美術コレクションを集めたウフィツィ美術館は元々メディチ家の事務所だったという。街中にあるイノシシの像は「鼻を触るとフィレンツェに戻れる」と言われ、多くの人が触ることから鼻の部分だけ光り輝いている。そしてメディチ家の住居だったヴェッキオ宮殿は現在は市庁舎として使われている。
オープニング映像。今回は最新技術を用いてヴェッキオ宮殿の500人広間に隠されたダ・ビンチの幻の名画を探す。
ヴェッキオ宮殿は、1314年に完成。2階は、絵画で埋め尽くされている。500人広間と呼ばれる。総勢500人で構成されるフィレンツェの大評議会を開催するため1495年に作られた。ジョルジョ・ヴァザーリの描いた絵で埋め尽くされている。ミケランジェロの弟子だという。17年の歳月をかけて大改装した。フィレンツェとピサの戦いも描かれている。シエナ攻防戦も描かれる。フィレンツェが勝利した戦いだ。500人広間は名画による歴史書だ。改装される前には、ヴァザーリではない有名な画家の絵があったと言われている。1563年から500人広間を改装。ミケランジェロがカッシーナの戦いを描いていた。同時期にレオナルド・ダ・ヴィンチが反対側に別の絵を描いていたという。それがアンギアーリの戦いという絵。2人とも絵を完成させずにフィレンツェを去った。ダ・ヴィンチの絵は、ヴァザーリに塗りつぶされた。
シエナ攻防戦の絵の下に、ダ・ヴィンチのアンギアーリの戦いの絵が残っていると主張する人物がいる。カリフォルニア大学サンディエゴ校のマウリツィオ・セラチーニ教授だ。サンタ・マリア・ノヴェッラ教会を1572年に改修したとき、当時描かれていた絵を塗りつぶさずに、空間をあけて壁を作っていたことが判明。ダ・ヴィンチを尊敬したいたヴァザーリはその下にダ・ヴィンチのアンギアーリの戦いを残したのではないか。ヴァザーリが描いたシエナ攻防戦には、暗号のように兵士が持つ旗に、「CERCA TROVA」とある。「探せ そうすれば見つかる」という。
ヴァザーリのシエナ攻防戦の下に、ダ・ヴィンチの絵は残されているのか。2011根にセラチーに教授あh内視鏡で調査したという。内視鏡検査で取り出した物質を検査。ダ・ヴィンチがモナリザに使用した特別な黒と同じマンガンと鉄の比率だった。アンギアーリの戦いは中央から左よりに存在しているという。絵に穴を開けた責任を押し付けられて、調査は中止となった。
シエナ攻防戦の下に、幻の名画・ダヴィンチのアンギアーリの戦いはあるのか。最新技術で解析した。3Dレーザースキャナーで計測する。気になるデータがとれた。対ピサ戦の壁は裏から93センチの厚みがあることが分かった。シエナ攻防戦が描かれた壁の裏には不思議な空間があることが判明。壁の裏には広い空間がある。アンギアーリの戦いが隠されているのではないのか。その可能性は高い。
ルーベンスば模写した「アンギアーリの戦い」。1555年の改装が始まるまで、ダ・ヴィンチの「アンギアーリの戦い」は放置され、その間に多くの画家が模写をしている。ルーベンスの「アンギアーリの戦い」は、その模写を元に描いたとされている。そこには当時としてはあり得ないほどの生々しさを持って戦争の残忍さを描き出している。この絵を実際に見たヴァザーリは、その優れた描写力、特に人間の感情の表現や激しい動きの表現を絶賛。もし完成していればルネサンス期の最高傑作だった可能性があると残している。ところが、ダ・ヴィンチが描いていた「アンギアーリの戦い」と実際の「アンギアーリの戦い」は大きな違いがあった。
アンギアーリの戦いの舞台となったトスカーナ州アンギアーリ。フィレンツェから車で南に約1時間30分の場所にあり、人口は約5600人。丘の斜面に作られた街。7世紀から城塞都市として整備が始まり、旧市街地は細い道や階段などが入り組み、まるで迷路のような作りになっている。この土地は多くの都市国家によって支配権を握られた。こうした歴史から街を防御するため複雑な作りになったと言われている。アンギアーリの戦い以後、アンギアーリはフィレンツェと密接な関係を築く。過去にはアンギアーリの市民がイタリア統一運動にも参加し活躍したと言われている。現在アンギアーリは2002年に設立されたイタリアの最も美しい街協会に、歴史的にも風景としても美しいとして認定されている。ダ・ヴィンチが描いたアンギアーリの戦いは、ここから隣町のサンセポルクロの間にある場所が舞台だった。アンギアーリ歴史協会の会長に実際の場所を案内してもらった。アンギアーリの戦いがあったことを忘れないために、1441年に建てられた小さな礼拝堂がある。現在はこの礼拝堂以外は畑になっている。
1440年、ダ・ヴィンチが絵を描く60年ほど前に起きた「アンギアーリの戦い」。フィレンツェ軍など同盟軍1万2000人が、侵攻してきたミラノ連合軍1万1000人と対決。ミラノ軍はサンセポルクロから奇襲を仕掛けるが、サンセポルクロからアンギアーリは1本道。しかもアンギアーリの方が高台にあったので騎馬が来る様子が見えフィレンツェ軍はすぐに迎え撃った。実際の戦いを記した文書がアンギアーリの図書館にある。
ルネサンス期の政治思想家・マキャベリが1532年に書いた本によると、実際のアンギアーリの戦いでの戦死者は落馬した1人だったという。
ダ・ビンチが「アンギアーリの戦い」を描いた当時、ダ・ビンチには“会計学の父”と呼ばれるルカ・パチョーリという親友がいた。2人が出会ったとされるミラノのスフォルツェスコ城には2人の仕事部屋が今でも残っている。またスフォルツェスコ城はルネサンス期のミラノ最大の建物で、ダ・ビンチなど多くの芸術家が集まる文化の中心地でもあった。ダ・ビンチはミラノにいた時に名画「最後の晩餐」を描いたが、ダ・ビンチは最後の晩餐だけでなくスフォルツェスコ城の城主の巨大騎馬像を作る予定だったと言われている。そしてこの巨大騎馬像がアンギアーリの戦いの謎を解く鍵だという。
ダ・ビンチは巨大騎馬像の模型を完成させ、模型はスフォルツァ家の結婚式で当時の王宮の中庭に展示されたという。しかし1499年にフランス軍がミラノに侵攻し、ダ・ビンチが巨大騎馬像のために集めた銅は大砲の弾に使われてしまった。そしてダ・ビンチが完成させた模型はフランス軍によって破壊されたという。これを機にダ・ビンチはミラノを去ったとのこと。ダ・ビンチは巨大騎馬像を完成できなかった大きな後悔の念を持っていたという。
ダ・ビンチの日記は家族にほとんど触れていない。しかし父親の死は「1504年7月9日水曜日7時 我が父ポデスタ公証人 セル・ピエロ・ダ・ビンチ死す 80歳 10人の息子 2人の娘を残す」と記している。ダ・ビンチはフランス軍の侵攻で親友のルカ・パチョーリと共にマントバに避難。その後、フィレンツェに戻ったダ・ビンチは1500年頃にサンティッシマ・アンヌンツィアータ教会で聖アンナと聖母子と幼児聖ヨハネのドローイングを描いたとされる。幼児のキリストを抱く聖母マリア。聖母マリアは母の聖アンナの膝に座り、一番右に幼児の聖ヨハネがいる。ダ・ビンチ研究の第一人者パランティ氏は「聖アンナの視線が怖く描かれ、この絵がレオナルドの苦悩の表れだと言われる。当時のレオナルドの人生が決して楽な時期ではなかったことも関係している」と話す。ダ・ビンチが父親に認められたい思いで制作していた巨大騎馬像。それを無惨に壊された怒り。本来であれば安らぎを与える題材にも関わらず、見た人が恐怖心を抱くほど絵を描いた時のダ・ビンチの心はすさんでいたという。その父親の死と同時期にフィレンツェからの依頼で描くことになったのがアンギアーリの戦い。ダ・ビンチは1人しか死んでいないアンギアーリの戦いをなぜ恐ろしい表現で描いたのか。パランティ氏は「レオナルドは実際には戦争ではなく小競り合いだったと言っている。しかし後世に書かれた本を読む限りレオナルドは戦争の残虐性や恐怖を戦争を愚かな行為として警告するために教訓として描きたかった」と話す。
人命ほど神聖なものはないと考えていたダ・ビンチは、人体のスケッチを細かく描いた。パランティ氏は、レオナルドは戦争を英雄的な行為として描かず戦争の恐怖と破壊を描いたと話した。世界で最初に反戦の絵を描いたのはピカソのゲルニカと言われている。一方でアンギアーリの戦いは、戦いそのものに焦点を当て戦争行為の恐怖を訴えている。ダ・ビンチは1519年にフランスで亡くなった。フランソワ1世は、かつてこの世界にレオナルドほど優れた人物がいただろうかとその死を悼んでいる。
エンディング映像。
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