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スロベニアで大塚さんはたこ焼き屋を経営しようとしたが現地の人はタコが苦手な人がたくさんいたという。当初はそのことで敬遠され赤字になってしまった。そこで大塚さんはタコの変わりに入れたものはエメンタールチーズ。するとその美味しさに人々に受け入れられるように。すると、普通のたこ焼きも認知され、2つの味を求めてたくさんのお客が店を訪れる。大塚さんは現在精神衛生はすごくいいというが現在その収入は前職より半分以下だと語った。
スタジオでマツリのチーズたこ焼きのが再現されたものが登場。名倉は味の感想に売れると答えた。長嶋一茂は海外の物価の高さを伝えた。
大塚さんは18歳で名古屋のホテルの調理人として働いていて調理師免許を取得した。その3年後には水商売をしたというが30代前半まで水商売をしていたが営業マンをしていた。しかしかなりブラックだったという。そのストレスで髪の毛がボロボロぬけ、自分の身体が壊れていくのがわかったという。しかし不思議と辞めたいとは思わなかったというが性質的に死ぬまで働きたいということがわかった。定年後の人生に疑問を感じ、その後もずっと現場で働いている状態が良いと感じたという。その後たこ焼き屋になろうと修行を開始。するとその半年後にはたまたまスロベニアで働く友達がいて、誘われたというが、たこ焼き屋が全くなく、競争も無かったために経験が乏しくてもやっていけると考えた。
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- マツリリュブリャナ(スロベニア)
アフリカにあるナイジェリアは国土面積は日本の約2.5倍。人口は2億人が住んでいる。そんなナイジェリアにはゲイシャと言う名の商品が売られている。川商フーズの商品でトマトソースのサバ缶。インスタントラーメンにゲイシャをいれて食べたりするという。他にもゲイシャ入りのパスタやライス等様々。以前はノルウェー産のサバ缶が使用されていたが不漁により取れなくなると日本のサバ缶が主流に。他にもカネカロンという日本企業のカネカがつくる、ナイジェリア女性の憧れの長い髪を実現するために付け毛がファッションとして流行。
日本食堂は海上スラムにあるという。その海上スラムはマココと呼ばれている場所。そして船にのって海上スラムの中へ。マココは無数の家々に推定25万人が生活しているが東京・渋谷区と同じ人数に相当する。しかしこの場所はナイジェリア政府に認められていない地域で、立ち退きを迫られインフラも脆弱で厳しい生活を強いられている。その中に日本人が経営する日本食堂が。ハヤトレストランでは肉寿司やうどん、唐揚げなどが提供されるがその味にお客は大絶賛。このメニューはハヤトさんが作っているが他にもビーフカレーなどを提供している。
森田隼人さんはこの場所でレストランを経営し2ヶ月半前の2024年9月にオープン。働いているのは森田さんと18歳のジョンくん。レストランには電気、ガス、水道は通っていない。ジョンくんのその日課は水の購入。水が一番貴重で、雨水を貯めた店から毎日水を買う必要があるという。そのために極力水を使用しない努力も欠かさない。料理の皿は紙皿にし、フォークやスプーンは使い捨て。ガスがガスボンベで調理している。電気もないので日中は40度の中で熱さに耐えながら仕事をする。またナイフを突きつけたれたことが複数回あるというがこの場所はアフリカの中でも治安が悪く危険地帯と言われギャングの抗争もあり、強盗や殺人など凶悪犯罪がおこる場所でもあるという。森田さんは元プロボクサーだった過去があり、元WBC世界フライ級の内藤大助さんと同じジムだった。そしてお肉の店を経営していた。
午後4時になると森田さんは船に乗りやってきたのは海上にある学校。授業はすでに終わっていたがその小さな部屋で始めたのは調理。炊き出しを行っているがスラムの人のために無料で料理を振る舞っているという。ジョンくんは店が出来て以来、森田さんの元で働きながら料理を学んでいる最中。しかし前は一度も料理をしたことがなかったという。さらに始めたのはうどんづくり。日本から持ってきた乾麺の稲庭うどんを茹でていく。和風だしの粉末スープにそこに真っ赤なソースをいれる。トマトと唐辛子のペーストと和風だしが完成した。日本の味にナイジェリアの味をプラスしている。さらにエグシというメロンなどウリ科の植物の種をすりつぶして作ったスープを入れればエグシうどんが完成。トマトと唐辛子のペーストをいれて炊いたご飯の上に煮卵や鶏肉をのせていき完成した。こうして炊き出しに70人が集合した。その味に人々は大満足だったがこれらは森田さんが買い集め無料で準備している。
森田さんは学校の2階で寝泊まりしているという。学校から人がいなくなることはなく、たくさんの人達がここで寝泊まりをしている。現状を知ってしまったからこそ森田さんは学校での炊き出しを続けている。翌日、森田さんは顔を洗い船にのって向かったのは市場。新鮮な魚やエビを購入した。そしてこの日マココの視察にやってきた外国人がやってきた。この場所にはNGOや赤十字社の視察団がやってくるという。レストランには貴重なお客で関西のイカ焼きをイメージして作った大阪の名物料理を提供している。
次の料理はパスタに明太子とオリーブオイルを入れて明太子パスタに。またエビが入ったボロネーゼソース。そこに日本のあおさのりをトッピングした和風パスタに。その代金は森田さんには支払われないという。生活はスラムの貧しい人々から寄付してもらっているという。寄付金はすべてスラムの学校の先生の給料や維持費にあてられている。18歳のジョンくんは9人兄弟だというが漁師の父親を筆頭に10人家族が一緒に暮らしている。つい最近までは父親と同じ漁師の仕事をするしかないと思っていたが、今の夢はシェフになることだという。森田さんには新たな夢ができたというがそれはジョンくんを1人前にすること。そのために簡単にできるハヤトレストランの看板をつくることが目標。
森田さんは1978年に大阪市で生まれた。小さな頃の夢は建築家だった。大阪の大学を卒業したあとに建築会社に就職。その後、一級建築士などの資格を取得し独立。建築家として活躍していたが元プロボクサーでもあり、その後指導者として働いていた。料理人になった理由には若手選手の食生活がよくなく、運動したらご飯を食べろと指導するのにお金がないためにそれが出来ていなかったという。安くて美味しい焼肉屋を作ろうと考えた。32歳のときに東京・神田で立ち食い焼肉屋を開店の六花界をオープン。店は大反響で系列店もあるという。
小峠はセルフレジを使用しようとしたらそこはセルフレジではなく普通のレジだったと答えた。森田さんは2.2坪の焼肉屋から6店舗に増やした森田さん。順風満帆かと思いきや新型コロナウイルスが発生。その時に命の大切さを知り、自分の料理や技術や考えで救うことができるかを考えた時に発展途上国やスラムでできることをと考えた時に海上スラムに行き着き、自分なら変えられると思ったという。海上スラムの人を料理人にすれば稼げぐことができ、レストランにできると感じた。猪突猛進で何度もナイジェリアに行き、マココの人達に受け入れるまで1年半をかけ去年の9月に日本食堂を作った。全てボランティアで日本とナイジェリアで行き来する日々。
森田さんが一緒に働くジョンくんに授ける貧しい生活をかえる看板メニューを紹介。チャック付きのポリ袋に小麦粉をいれて塩水を小麦粉にいれて綿棒がないので空き瓶で生地を伸ばしていく。そして麺にしてうどんにする。醤油ベースの鶏ガラスープにして器の中で。牛肉をお湯でしゃぶしゃぶしてあおさのりをかけて肉うどんが完成。ジョンんくんは味の感想に美味しいと絶賛した。
森田さんの姿は王様の前にいたが突然料理を振る舞うことに。
森田さんの料理が食べたいと申し出たのはヨルバ族のエグバ王のアレクさん。海上スラムを取り仕切るNo.1の存在。森田さんは自らの料理を披露し大満足したという。森田さんは自分のようになってみたいと思えるような憧れの種を植えていくことが大事だと答えた。