- 出演者
- 日村勇紀(バナナマン) 設楽統(バナナマン) 岸本理沙 真野恵里菜 DAIGO
日本各地で様々なUMAが世間を騒がせてきた。ツチノコは槌の子から名付けられ、ジャンプ力は2m。多くの目撃談から何度も懸賞金が出され現在でも捜索が行われている。広島の比婆山連峰に生息するとされるヒバゴンは1970年に初めて目撃され、1974年には写真が撮られた。地元では今も捜索が続いている。カッパは「和漢三才図会」で川太郎として初めて絵図で紹介された。ビビる大木が5歳の時に岩槻城址公園の池で見たというカッパを調査。カメラを3台設置したが撮影はできなかった。
伝説や目撃情報によると最も目撃情報が多いのは九州。江戸の説話集「本朝俗諺志」では、カッパは中国から熊本・八代市に泳いでわたってきたとされている。住み着いたカッパの一族は9000匹となり、頭領は九千坊と呼ばれた。八代市には中国からカッパやってきたことを記す伝承を記した碑があった。その後田主丸などに追いやられたという。田主丸町でカッパ伝説を伝えている菰田さんは「私たちの親・祖父の時代は目撃情報をよく聞いたが最近は姿をあらわさない」と話した。菰田さん自身も小学生のときに川に引きずり込まれた経験があり、カッパの仕業だと思っていると話した。1984年、長崎・厳原町では不審な人影が川に消えるのが目撃され騒動に。1995年には検証特別番組も放送された。
長崎・厳原町では不審な人影が川に消えるのが目撃され、翌朝にはオタマジャクシのような形をした足跡が見つかった。カッパのものに違いないと誰もが思ったが、その後正体は解明されないまま。佐賀・伊万里市の松浦一酒造では1953年に瓦の葺き替え作業をしていたところ古い箱が見つかった。「河伯」と記されており、日本ではカッパのことだった。中にはカッパのミイラが入っていた。
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岩手・山形町ではガタゴンというUMAがメジャー。1992年に農作業中の女性が畑の土の上に残された足跡を発見したのが始まり。当時現場に駆けつけた役所の下斗米さんは、親交があった専門家に足跡の解析を依頼したが解明できなかった。その後も真相は明らかになっておらず当時の記録も残っていない。町民たちはこの珍獣を町のシンボルとして活用した。
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福島・いわき市で撮影されたUMAは波打ち際から目視できる水深5mほどのところに現れていた。専門家によるとマッコウクジラである可能性が高く、何かしらのアクシデントで群れから離れた個体が浅瀬に迷い込んだと考えられるという。撮影者は以前にも小名浜港で別のUMAを撮影したという。
小名浜港で撮影された謎の生物の映像を伝えた。映像について専門家に確認したが、わからないや断言しにくいという意見が多かった。複数の専門家はウミガメの可能性を指摘した。
2006年、島根県在住の50代女性はある日腕にひどい蕁麻疹が出た。病院を受診するも蕁麻疹の7~8割は原因がわからないとされており、駐車と飲み薬で症状が落ち着いたため検査はされなかった。1か月後、再び激しい蕁麻疹に襲われ飲み薬で収まった。その2か月後も再び発症し、検査をすると牛肉、豚肉のアレルギー反応とわかった。肉を控えると症状は出なかったが、その後アナフィラキシーショックを起こした。一命は取り留めたが、肉以外の食材にもアレルギーの発症が疑われた。しかし魚や他の食材に対するアレルギーは出なかった。詳しい検査の結果、子持ちカレイの煮付けが原因とわかった。交差反応と言われるもので、アレルギーの原因物質と構造が似た別の物質にもアレルギー反応を起こしてしまうこと。女性が発症していた肉アレルギーは「α-Gal」という物質に反応するものです、カレイの卵にはよく似た物質が含まれていた。ただそれまで平気だった肉に対してアレルギーを発症してしまったことが女性は疑問だった。女性がアレルギーを発症した原因は飼い犬についたマダニなどに噛まれ体内にα-Galが侵入したことが原因と考えられた。また血液型がB型、AB型の人が持つ物質はα-Galに似ているため異物とみなされアレルギーになりにくい。そのため夫は肉アレルギーにならなかった。日本全国でマダニによる肉アレルギーの患者数が増えている。そのほかに金属アレルギーや日光蕁麻疹といったアレルギー反応もある。
水蕁麻疹は稀な病気で検査法も確立していない。水に接した場所に蕁麻疹ができ場合によってはアナフィラキシーショックが起きることもある。一説には皮膚の表面についた物質が体内に侵入しアレルギー反応を起こしていると考えられる。水そのものに対してアレルギー反応を起こしているわけではないので飲んでも症状は出ない。専門家によると抗ヒスタミン薬を飲むことで症状のコントロールが良くなるという。
島根大学の千貫准教授がリモートで登場。「甲殻類アレルギーを持っているがまた食べられるようになる?」という質問に「すべてではないが多くは治せる可能性がある」「皮膚からの成立が高いというのがわかってきており、その場合は皮膚からの侵入を止めれば治る可能性がある」と答えた。「将来的に花粉症が改善することはある?」という質問には「すでになり始めている」「スギ花粉のアレルゲンを継続的に取り続ける治療法ができている」と答えた。
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誰もが知るあの超有名店を開いた洋江さんの半生を紹介。洋江さんが子供の頃、父は仕事に向かう際に必ず広告チラシの裏に洋江さんへの一言メッセージを残していた。洋江さんはそれをすべて宝箱の中に集めていた。洋江さんは広告代理店に就職したが退職し、別の職を得たが新たな目標を見つけられずにいた。酒好きで啓二さんが営むバーの常連客になった。さらに夜だけアルバイトをし、料理を作った。その後だんだんと店に客が来なくなり2人は新しい店を開くことにした。
洋江さんと啓二さんは2001年、大阪の繁華街に和食レストランをオープンした。デザイナーに依頼し、トレンド最先端のデザイナーズレストランにした。店は繁盛し、2004年には港区青山に京懐石料理店をオープン。こちらも人気になり、2人は東京に移住。洋江さんは亡くなった父の思い出の味を店で再現したいと考えていたが、なかなかうまくいかなかった。その後店の売上が落ち、2008年のリーマン・ショックが追い打ちとかけた。東京から撤退し、大阪の店も畳むことにした。
大阪への荷造りをしているとき洋江さんは父の一言メモをしまっていた宝箱を見つけた。その中には思い出の味のレシピもあり、洋江さんは作りたかった味を実現。世田谷の住宅街の居抜き物件でこれを売りにした店を始めることにした。2008年12月にオープンすると繁盛し、日に日に客足が増加した。
洋江さんがオープンした店は「串カツ田中」だった。メモにはソースと衣の材料・配合など美味しく作るコツが書かれていた。トレンドにのった店は流行の変化とともに客足が遠のいたが、庶民的なつくりの串カツ田中は流行り廃りに左右されない店となった。2021年には300店舗に達した。現在は啓二さんが会長、洋江さんは相談役を務めている。