- 出演者
- 日村勇紀(バナナマン) 設楽統(バナナマン) 岸本理沙 河合郁人 今井アンジェリカ
オープニング映像。
2008年9月、唱田さんは人生のどん底にいた。1年前婚約していた恋人にフラれ、1カ月前には出張先で上司を怒らせ会社をクビになった。当時の通帳残高は3万9419円。しかし唱田さんは東京・福岡間の往復航空機チケットを購入し福岡でスポーツくじを購入。スポーツくじはサッカー14試合の試合結果を当てるくじで14試合全てを的中させる確率は478万2969分の1。唱田さんは1口300円のくじを10口購入。勝敗はコンピューターがランダムに選択するシステム。唱田さんは占いを独学で勉強しておりくじを購入した日は福岡の方位が吉方位だったため福岡で購入したという。唱田さんが購入したスポーツくじは一等が当選し総額6億円を手に入れたが豪遊しまくった結果、1年で3億円を使い切ったという。
1960年代、ルーマニアで貧しい暮らしを送っていたマンデルさんが人生の一発逆転に希望を託したのは宝くじだった。幸運にも一等が的中し当選金を元手にオーストラリアへ移住。1992年、キャリーオーバーが上乗せされるアメリカの宝くじに狙いを定め宝くじの必勝法を決行。見事一等を的中させた。マンデルはコンピューターを使い事前に用意した大量のくじに異なる数字の組み合わせを印刷。協力者が手分けして売り場でそのくじを購入してもらった。宝くじの必勝法は6つの数字の組合せを全部買うこと。キャリーオーバーで一等賞金が3倍になったタイミングで作戦を実行した。
宝くじ全通り購入作戦の一等当選金額は、現在の価値で約38億円。この宝くじの当選金は20年間の分割で支払う形式だったがマンデルは出資してくれた協力者たちに当選金で得た利益をただちに分配する必要があった。そのため当選の権利を他の企業に売却。実際に手にしたのは約20億円。そこから経費や協力者への配当などを除き、残りはマンデルの手に渡ったとも言われている。アメリカ当局は全部買いを問題視し、その後法律が改正され宝くじの大量購入は規制された。
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- アメリカ
バナナマン日村は宝くじで5万円が当選した経験があるという。一等または5万円を超える当選金を含む場合宝くじ売り場では換金できない。今井アンジェリカはスクラッチで10万円当たったことを明かした。
1980年4月25日、運送業をしていた男性は東京・銀座の道端のゴミ置き場で何かを包んだ古びた風呂敷を発見。男性は新聞紙が回収されずに残されていると思い家に持ち帰った。しかしこの拾いモノで男性の人物は大きく狂うことになる。
大貫さんが偶然見つけた風呂敷の中には現金1億円が入っていた。1億円を警察に届けた大貫さんは一躍時の人となった。すると拾った翌日から寄付を求める電話や脅迫電話が1日100件以上もかかってくるようになった。身の危険を感じた大貫さんは自腹でガードマン2人を雇い手作りの防弾チョッキなどを用意した。1億円を拾ってから6カ月が過ぎた1980年11月11日、落とし主は現れず1億円は大貫さんのモノとなった。しかし拾ったお金には税金がかかるため実際に手元に残った金額は約6600万円だったという。大貫さんは残ったお金で都内の新築マンションを現金一括払いで購入。他にも車の買い替えに使ったという。さらにフジテレビのドラマや「オレたちひょうきん族」に出演した。そんな大貫さん2000年12月2日に62歳という若さで亡くなった。そんな大貫さんの兄の孫・大貫幹枝さんは現在お笑い芸人として活動している。
詐欺にあい多額の借金を背負ったデブラさんと母親。ある日、デブラはゲストルームを片付けていた時、子供の頃にフリーマーケットで数千円で購入した思い出のモノを発見。生活費の足しになればと質屋に持っていくとオークションにかけられることに。落札価格は現在の価格で約1億円。デブラさんがおもちゃの指輪だと思っていたものは26.29カラットのダイヤモンドだった。デブラさんは手に入れたお金で借金を返済することができたという。
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- サザビーズロンドン(イギリス)
1922年、帝国ホテルのベルボーイが外国人客へ手紙を配達しチップの代わりとしてあるモノをもらった。2017年10月、ベルボーイの親族がこの時に受け取ったあるモノをオークションに出品したところは現在の価値で約1億9000万円で落札された。チップ代わりに受け取ったモノは幸福論のメモ書き。メモした人物はアルバート・アインシュタイン。このメモは当時のアインシュタインが心境を皮肉を込めて書いたのではと言われている。
1992年11月、イギリス・サフォーク州で暮らす農家のピーターさんは1日中トラクターで土を掘り返していた。しかし大事なハンマーを紛失してしまい探したが土に埋もれた可能性が高く見つからなかった。そこでピーターさんは金属探知機を持っている友人に協力を依頼。金属探知機が反応したため掘り起こしたところ全く別のモノが見つかりすぐに警察に通報。翌日発掘作業が行われた。
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- サフォーク州(イギリス)
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ハンマー探している最中に偶然見つかったモノは約1万5000点の財宝。今から2400年以上前のローマ帝国時代のもので裕福な人物が埋めて隠したのではないかと推測された。財宝は大英博物館に所蔵され、博物館から現在の価格で約4億4000万円の報奨金が支払われた。ピーターさんと友人は報奨金を均等に分け合ったという。探していたハンマーも後から見つかり大英博物館で保管されている。
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- 大英博物館
2010年、ランディさんはアンティークショップで妻へのプレゼントとして3枚の古い写真を購入。3枚のうち1枚の写真に写ったあるものに気付き骨董品の鑑定をしてもらった。
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- カリフォルニア州(アメリカ)
アンティークショップで妻へのプレゼントに買った写真。そこに写っていたあるモノに気付き鑑定してもらったところ鑑定額は現在の価格で約4億9000万円。写真に写っていたのはビリー・ザ・キッド。1881年、21歳のときに射殺されたといわれておりこれまで写真は1枚しか発見されていなかった。
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- ビリー・ザ・キッド
2024年9月、大谷翔平選手が史上初の50本塁打50盗塁を達成。ホームランボールをキャッチした人は球団からの買い取りの申し出を拒否。その後オークションに出品し記念ボールとして過去最高額となる約6億6000万円で落札された。
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- 大谷翔平
2023年12月、大谷翔平選手のドジャース入団会見で球団担当者がある日本人の名前をあげた。その名は生原昭宏。少年時代、生原さんは野球に夢中になった。早稲田大学野球部に入り2年生のとき、武器の肩を痛めレギュラー争いから脱落。大学卒業後、生原さんは亜細亜大学の監督に就任。当時の亜細亜大学野球部はまだ創部4年目で同好会レベルと言われていた。だが生原さんはスパルタ式に鍛え上げわずか1年で3部リーグから2部リーグに昇格。その後2年で1部リーグに昇格。そんな生原さんを支えたのは監督1年目に結婚した妻・喜美子さんだった。
1964年、生原さんは学校側から突如監督交代を告げられる。大学側はスパルタ式一辺倒の生原さんの指導法では限界があるとと感じ実績ある指導者に声をかけていた。生原さんは面識がないある大物を訪ねた。門前払いされるも何度も訪ね、ついに面会が叶ったのは日本野球界の重鎮・鈴木惣太郎。生原さんは鈴木さんに頼みこみロサンゼルス・ドジャースへ紹介状を書いてもらった。鈴木さんは当時唯一メジャーとのパイプを持っていた。本場アメリカで最先端の野球理論を学び帰国後、日本で指導者として活躍したいと語る生原さんの情熱に胸を打たれた鈴木さんは紹介状を書いて送ってくれた。
留学の予定は2年間。この間、ドジャース側からの給料は発生しないため留学費用約200万円、現在の価値で約1300万円は自腹。留学費用は両家の両親が必死に工面してくれたという。生原さんはマイナーリーグのチームの練習を見学しアウトになると思われても全力疾走するバッターが印象に残った。生原さんが最初に与えられた仕事は選手のスパイク磨きやユニフォームの洗濯。選手の中には有色人種への偏見が色濃く残っていた。そんな中、英語の聞き間違いから試合で使用する帽子を間違った球場に送ってしまう事件が発生。言葉や文化の違いによるミスを何度も重ねてしまいその事がピーター・オマリーさんの耳にも入った。ある日、生原さんは会長親子に呼ばれた。
会長親子の計らいで離れて暮らしていた家族も一緒に生活することに。家族とともに暮らすことで気持ちに余裕が生まれた生原さんは以前にもましてクラブハウスの掃除などに力を入れた。さらに日々の雑用をこなす傍ら、毎朝4時に起き苦手が英語を克服するため野球の記事を貪るように読んだ。熱戦を繰り広げた日などには冷たいビールを用意するなど選手と積極的にコミュニケーションをとり徐々に周囲が生原さんを認め始めていった。留学期間は終わりに近づいていたある日、マイナーチームのゼネラルマネジャーをしていたピーター・オマリーさんがドジャースの副社長に昇格。
日本一の最低男 ※私の家族はニセモノだったの番組宣伝。