- 出演者
- 設楽統(バナナマン) 小室瑛莉子 北斗晶 梅澤美波 佐藤龍我(ACEes)
ある人気モノの経歴を紹介。長野・大町市出身の男性は小3で母が他界。高1で描いた漫画がちばてつや賞の期待賞を受賞したが、次の作品が面白くないと言われたため漫画家は諦める。プロレスラーを目指したが、細身だったためレフェリーとして採用されたことを知り諦める。俳優を目指したが滑舌が悪かったためこれも断念。お笑い芸人になると、テレビ番組からオファーが殺到した。ネタ本を出版すると70万部を超えるベストセラーになった。突然マネージャーーが退職し、スケジュール管理や事務作業をこなして体調を壊した。大手芸能事務所に移籍すると自身を失って地元に帰った。
ある人気モノの正体は鉄拳だった。夫婦が歩んだ人生の時間を振り子の揺れに重ねて表現したパラパラ漫画「振り子」がYouTubeをきっかけに拡散し、イギリスのロックバンド「MUSE」のMVにも採用された。吉本興業と第一興商がコラボして芸人が描いたイラストを組み合わせたカラオケ映像を作る仕事がきっかけだった。鉄拳は素顔で大河ドラマ「べらぼう」に出演していた。
ある人気モノの経歴を紹介。幼稚園の頃はプリンセスの格好で登園していた。
ある人気モノの経歴を紹介。通信機能付きのゲーム機でイラスト・歌・アニメを制作し投稿した。小学校ではイラスト係を任されたが男子にイラストを捨てられた。中学で不登校になると自分の歌を投稿し始めた。通信制高校で学びながらミュージシャンを養成するスクールに通った。父親やスクールの講師に自分の歌を否定されたが、歌を聴いた小さな音楽事務所から話がしたいとメッセージがあった。Zepp DiverCityで歌う夢を語ると、その男性は会場を押さえてくれた。彼は大手音楽事務所を退職した35歳のタクヤで、個人事務所を設立したばかりだった。
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ある人気モノの経歴を紹介。新型コロナウイルスのまん延で、彼女のZeppでのライブは難しくなった。メジャーデビューを望んだ彼女はタクヤの事務所と契約した。彼女はこれまでの表現手法の継続を望んだためデビューさせてくれるレコード会社はなかなか見つからなかったが、ある大手レコード会社のオーディションに合格した。
少女の正体はAdoだった。18歳の誕生日前日に1人で録音した「うっせぇわ」が世界に向けてリリースされた。幼い頃に聴いてハマったのはボーカロイド。彼女は歌い手のスタイルのままメジャーデビューした。顔出しはしないこと、歌った曲を自由にネットへ投稿できることがデビューの条件だった。MV公開から148日で再生回数は1億回を超えた。デビューから1年半後にZepp DiverCity (TOKYO)でファーストライブを行った。その4か月後にはさいたまスーパーアリーナでセカンドライブを開催した。音楽事務所を1人で経営していた千木良さんは、Adoと出会った頃はUberEatsの配達をしながら活動資金を捻出していた。Adoは、商売抜きで私自身のことを聞いてくれたのが嬉しかったと話した。
ある人気モノの経歴を紹介。中高で野球に熱中した彼は、デザインの専門学校に進学したものの就職活動に失敗。学生時代からのバイトを続けるフリーターだった。ある資格試験に合格したが、合格後に抜け殻のようになる期間が半年続いた。28歳である組織に就職し、先輩にパソコンを手取り足取り教えてもらった。バイト先で勉強を教えてくれた女性と結婚し、30歳のときにテレビ番組のオーディションに合格した。
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人気モノの正体は気象予報士の天達武史だった。「とくダネ!」のお天気コーナーを担当し、オーディションでは自身の名前が「天気の達人」とアピールしていた。天気の急変を予測できればファミレスの食材発注が正確にできると考え、気象予報士の資格取得を目指した。2010年から3年連続で好きなお天気キャスター第1位になった。滋賀・米原市の天達と中継をつないだ。天達は、人生で大切なのは楽しむことと話した。
ある店の創業者の経歴を紹介。1853年に埼玉県で生まれた彼は、戦争で負った傷の後遺症で父が働けないため村一番の貧乏とからかわれていた。家計を支え家事もこなした母は、苦しくても笑顔を絶やさなかった。中学に入るとゴルフ場でキャディのアルバイトを始めた。客の多くは横田基地からやってくるアメリカの軍人で、クラブを磨いて渡すとチップを渡してくれた。中学卒業後は住み込みで働ける工場に就職したが、同じ作業の繰り返しであっという間に退職。その後も生活のために働く日々を過ごした。友人から紹介してもらった出前の仕事をきっかけに飲食業を志した。
ある店の創業者の経歴を紹介。彼は岩槻駅近くの商店街の2階の店舗で店長を始めたが、赤字続きでオーナーは店を畳んだ。大家から店を引き継がないかと言われた、彼がお金がないと返すと大家は銀行にお金を借りてあげると申し出た。
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ある店の創業者の経歴を紹介。自分の店を持った彼は、従業員を雇いスタートをきった。深夜営業を始めると、口コミで評判が広まり人気店になった。誰もが食べられる値段にこだわった。
ある店の創業者の経歴を紹介。プロの料理人が集まらなかったため、メニューを誰でも作れるものに改良した。当時は1971年のマクドナルド1号店開店以来駅前のファストフード店が人気だった。低価格を売りにしていた彼の店はこの流れに乗れると確信し、ファストフード店がある近隣に店を構えるコバンザメ戦略をとることにした。責任はすべて負うという信念のもと、彼は徐々に店舗を増やしていった。価格は必ず自分で決定し、新店舗の出店場所も自分で判断した。創業から40年後には150店舗以上、年間売り上げ150億円を誇る一大チェーンになった。さらに東証一部上場も果たした。
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極貧の幼少期から一大チェーンを作り上げたのは、日高屋を創業したハイデイ日高の神田正会長だった。神田会長は2018年に自身が保有する株式の一部、総額数十億円を従業員に分け与えた。元々来来軒という名前で営業していたが2002年に日高屋に変更した。貧しかった頃に暮らしていた埼玉・日高市の名前をつけた。商売で成功しても人のためになれと教えていた母・なかさんは2013年に99歳で天寿を全うした。亡くなる前、世のため人のために働く正しい人間になるという約束をしたという。
