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オープニング映像。
新潟県上越市柿崎区は宿場として賑わった町。そこに住むのは玉井力三の御子息の玉井龍さん。そこには今日の作品の玉井力三作の小学館学習雑誌の表紙絵。縦45センチ横33センチ。水彩のようにみえるが油彩画だという。
昭和39年にオリンピックが開催。そのオリンピックにあわせて描かれた表紙絵は油彩画だが厚く塗らずに透明感があり滑らかな仕上がりが美しく赤いブレザーの柔らかな感触と陰影。子どもたちの顔は体温まで伝わるハリとツヤが表現され髪の毛一本一本まで描こうとする精緻な描写。表紙は時代の鏡で巨人軍の長嶋選手に抱きつく男の子が。世界の国から日本万国博覧会にあわせて描いたのは昭和45年の4月号。万博にやってきたことに期待に胸ふくらます男の子と女の子が描かれる。背後には岡本太郎の太陽の塔が。
東京地千代田区一ツ橋にある小学館は、子どもたちの学ぶ楽しさと喜びを広めようと学習雑誌を礎に創業した出版社。大正11年に小學五年生を創刊を皮切りに世界でも稀な学年別の学習雑誌として発展していく。その全盛期は1960円台から70年代初頭。子どもたちの黄金時代。塾も受験もそれほどなく、くたくたになるまで外で遊び、家帰ればテレビでアニメ放送という幸福な時間があった。そんな子どもたちの楽しみがぎゅっと詰まっていたおが学年別の学習誌だった。子どもたちの黄金時代を描いた玉井力三の画力に目を見張る。
玉井龍さんは玉井力三について表紙の絵が完成したらそれをもって東京に向かい打ち合わせをし撮影し写真を持って帰って描くの繰り返しだったという。玉井は25年間の柿崎と東京の往復を繰り返していた。また玉井は小学館の学習誌をめばえ、幼稚園を含め5学年分描いていた。さらに学習研究社、講談社の表紙も同時に描いていた。月に一度、複数の原画をもって東京に向かう。柿崎から12時間かけて東京へ。打ち合わせをし、子どもたちの撮影をしまた新潟へ。上野聡明さんは当時そのモデルをしていたという。その表紙では長嶋選手におんぶされていたがおぶられた記憶はないという。当時小学館の編集者として表紙を担当していた野上さんは蛇腹の着いた当時のカメラで、子どもの撮影に細かく指示していたという。プールの絵も実際にプールを借りて子どもたちが入ってる所に波を立ててときに強いこだわりを持って撮影していたという。こうして表紙に落とし込まれていった。リアリティにこだわる玉井はひたすら丁寧に描き、決まって最後にすることは瞳に輝いた白い点をいれる。玉井は学習雑誌は小学館だけで1000点以上を描きあげた。そもそもなぜ表紙絵の画家となったのか?
新潟県上越市本城町にやってきた渡辺いっけい。ここには小林古径記念美術館がある。ここに玉井力三の作品が収蔵されている。玉井力三作の三笠艦橋の図の中心には連合艦隊司令長官の東郷平八郎が。かつて戦争画の傑作とうたわれた作品だが東城鉦太郎の三笠艦橋の図 を21歳の玉井が模写したもの。この絵には裏話があるという。
玉井力三が21歳の時に描いた三笠艦橋の図は東郷本人に会って観察したうえでこの作品を描いているという。しかも出来栄えに満足した東郷自ら揮毫までしている。
玉井力三は明治41年現上越市・柿崎区生まれ。玉井は小学生の時から絵を描き続けてきたが17歳の時にロマン・ローランのミレー伝を先輩にもらい感銘をうけ、中村彝の作品に接しはげしい画心にうたれ画家になることを決意したという。19歳の時には展覧会に出品し、上京した玉井は太平洋画会研究所に入所し絵の研鑽を積んだ。戦後の作品群には人物描写の的確な表現力と色彩の豊かさが。画家としての道を模索していく中で文芸誌や婦人雑誌の仕事をきっかけに42歳の時に学習雑誌の表紙を手掛けた。
小学館学習雑誌の表紙は1970年代の半ばから写真の時代へ。1974年11月号を最後に玉井力三の表紙絵は終わった。小学一年生は創刊100周年を迎え玉井力三の表紙絵も紹介している。
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