- 出演者
- 渡邊佐和子 佐藤二朗 河合敦
今回、水戸黄門のモデルとなった水戸藩2代藩主の徳川光圀にスポットを当てる。
- キーワード
- 徳川光圀
オープニング映像。
1937年に公開された水戸黄門の映画があり、身分を隠して諸国を漫遊する姿が描かれていた。人助けをしているような描写もある。同作を原作にした講談本でも水戸黄門は諸国を旅していた。だが、江戸時代に発表された光圀の一代記「義公黄門仁徳録」では助さん格さんは登場せず、全国も旅していなかった。光圀と親交があった僧侶の日記を紐解くと、光圀の晩年の行動が記載されているといい、隠居後の光圀は水戸の領内をまわっていた。残された書状によると、光圀は他地域から取り寄せたリンゴや栗を育てるよう指示している。水戸藩は豊穣な土地とは言えず、石高は徳川御三家のなかで最も低い。耕作地が少なかったため、米作り以外の産業育成が急務だった。
徳川光圀による産業育成により、西ノ内紙を藩の専売品にした。使われているこうぞの性質により、水に浸しても破れることなく、書かれた文字もにじまなかった。商人は台帳に使用し、火災の際には井戸に投げ入れ、のちに回収しても判読できたという。また、水戸徳川家は新参者として水戸を統治するにあたって、領内を巡って民の警戒心を解いた可能性があるという。
水戸黄門で助さんのモデルになったのが水戸藩に仕えた学者、佐々宗淳だった。徳川光圀の指示で全国の寺や公家などを訪ね、各地の史料を調査していたという。調査をもとに編纂されたのが歴史書「大日本史」で、全231冊にのぼる。歴代天皇と主要人物の事績がまとめられている。責任者を務めたのが安積澹泊で、水戸黄門における格さんのモデルとなった。光圀が生きた時代に戦乱はなく、武士は行政に携わった。新時代に新たな歴史書を編纂することで後世に名を残そうとした。
徳川光圀は少年時代、素行不良だったという。だが、18歳の時に歴史書「史記」を読み、同じような境遇の人物に自らを重ね合わせ、更生していった。また、立派な歴史書を編纂したいという意欲を持つことになる。「大日本史」の他、朝廷の儀式の作法や道具を図解した「礼儀類典」、武士や皇族の花押を収録した「花押藪」も手掛けた。河合敦氏は後世に伝えるべく、文化の保存に貢献したといえるなどと語った。
水戸藩の藩校、弘道館にある石碑には設立の理念、教育方針が書かれている。そこには尊王攘夷、いわば倒幕のスローガンも併記されていた。徳川光圀の思想は天皇から政治を任されているからこそ、徳川将軍が大名を統率し、日本を治めることができるというもので、歴史書「大日本史」を通して水戸藩に浸透させた。1824年、水戸藩の海岸にイギリスの捕鯨船が現れ、水戸藩は乗組員を捕らえた。当時、アジア各地ではヨーロッパの国々によって植民地化が進み、水戸藩では侵略を許さないと攘夷の機運が高まった。そして、攘夷を成すには日本全体が団結しなければならず、その象徴たる存在は天皇だった。水戸藩が掲げる尊王攘夷に賛同し、水戸へ学びに来た人物に吉田松陰がいた。だが、ペリー来航をきっかけに欧米列強の実力を目の当たりにした幕府は開国やむなしと判断し、アメリカとの間で日米修好通商条約を締結した。天皇の許可も得なかったこともあり、人々は徳川幕府は攘夷もできなければ、尊王すらしていないと考え、倒幕の機運が高まった。
徳川慶喜は水戸藩出身で、鳥羽・伏見の戦いの際、大坂城から江戸へ逃げてしまった。父である斉昭には朝廷に弓を引くことがないようにと言い聞かせられ、新政府軍が錦の御旗を掲げた段階で、戦意を喪失したという。佐藤二朗は「倒幕側、幕府側も光圀の影響を受けて戦っていた」などと述べた。
「歴史探偵」の次回予告。