- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 佐藤賢一
オープニング映像。
宮本武蔵は武芸者だった新免無二を養父に持ち、厳しい稽古を積んだという。1604年、武蔵は京へとのぼり、足利将軍の剣術指南をつとめた吉岡流の当主だった清十郎に勝利したという。弟の伝七郎も破って見せると、門弟たちが3度目の決闘を申し込んだ。100人が集まり、弓矢といった飛び道具も揃えた。作家の佐藤賢一氏は吉岡一門と武蔵の決闘を描いた作品を発表している。吉岡一門がどのような布陣を敷き、武蔵がどう打ち破ったのか考察してくれた。武蔵は太陽を背にして接近し、大将で清十郎の息子だった又七郎をいきなり切り倒したという。多対一ではなく、一対一になるよう逃走ルートも検討していたといい、山林であれば飛び道具の効果も落ちる。
新免無二は十手術の達人だったといい、30年以上も古武術の修行を積む関展秀氏が十手術を見せてくれた。相手の攻撃を鉄扇で受け、十手が補助する。刀に置き換えれば、1本で相手の攻撃を防ぎつつ、もう1刀で剣戟が可能と考えられるという。
作家の佐藤賢一氏によると、宮本武蔵は剣術家として名を馳せたが、本人は兵法家を自負していたという。佐藤二朗は武蔵が21歳にして100人の吉岡一門と対峙し、勝利したことに驚きを禁じ得ないという。17歳の時には関ヶ原の戦いを経験したという。
一乗谷は戦国大名・朝倉氏の本拠地で、北陸地方で有数の都市だった。朝倉氏に仕えていた武士に富田勢源がいて、門下生だったのが佐々木小次郎だという。江戸時代に出版された剣術の本には小次郎が会得した「ツバメ返し」と思われる記述がある。使っていた刀は通常よりも20cmほど長かったといい、人並み外れた体力、筋力の持ち主だったと考えられる。日本頭刀を振り下ろしつつ、途中で手を緩めると刀は回転する。刃が自然と上を向き、相手の死角から第二の剣戟が可能だという。
巌流島での戦いで、佐々木小次郎の長刀に対して、宮本武蔵はほぼ同じ長さの木刀を用いた。佐藤賢一氏は「武蔵の得物はこれぐらいと知られなくてすむ。勝負の瞬間まで佐々木小次郎に気取らせない。これが武蔵の策略」と推測する。さらに関展秀氏によると、半身になっての片手打ちなら、小次郎よりも遠い距離から当てることができるといい、木刀であっても十分な打撃力になる。武蔵は小次郎に勝利した後、決闘をやめたとされる。
吉岡一門、佐々木小次郎との決闘後、宮本武蔵は播磨、明石でまち作りに関わった。62歳で死去したとされる。兵法家だけでなく芸術家としての一面もあり、水墨画の「枯木鳴鵙図」は重要文化財に指定されている。佐藤氏は静謐な作品のようでありながら、獲物を狙う百舌鳥の躍動、緊張感が伝わってくるという。
「歴史探偵」の次回予告。
